「全員に売るならテトリスを」ゲームボーイとともに世界へ広がった40年の物語
テトリス生みの親が語る、権利を取り戻すまでの道のりと世界的IPの守り方
「テトリスをプレイしたことがある人は?」司会を務めたThe New York Timesのサプナ・マヘシュワリ氏(Sapna Maheshwari)が会場に問いかけると、客席のほぼ全員から手が挙がった。
VivaTech 2026のセッション「The Tetris Story — More than a Game」に登壇したのは、テトリスの開発者であるアレクセイ・パジトノフ(Alexey Pajitnov)氏と、ゲームを世界市場へ広げたThe Tetris Company会長のヘンク・ロジャース(Henk Rogers)氏だ。
1984年にソ連で生まれたテトリスは、任天堂のゲームボーイへの採用をきっかけに世界へ広がった。その一方で、開発者本人が権利を取り戻すまでには10年以上を要している。セッションでは、ゲームの誕生、二人の出会い、知的財産を巡る経緯、40年以上続くブランドの運営について語った。
ASCII文字から生まれたテトリス
マヘシュワリ氏はまず、パジトノフ氏にテトリスを作った経緯を尋ねた。パジトノフ氏は当時、モスクワのソ連科学アカデミーでコンピュータプログラマーとして働いていた。もともと数学パズルやなぞなぞが好きで、図形を組み合わせるパズルをコンピュータ上で再現しようと考えたという。
ただし、当時使っていたコンピュータにはグラフィックもサウンドもなかった。画面に表示できるのは、ASCII文字による24行のテキストだけだった。
「文字データをどうにかグラフィックに見立てることが、主な挑戦でした」(バジトノフ氏)
文字を使って図形を表現し、画面上で回転させる。その動きを見たことから、上から落ちてくる図形をリアルタイムで操作するゲームのアイデアが生まれた。
元になったのは、正方形を5個組み合わせる「ペントミノ」と呼ばれるパズルだった。しかし、12種類の形をリアルタイムで扱うのは複雑だったため、正方形を4個組み合わせた7種類の「テトロミノ」に絞った。ちなみに「Tetris」という名称は、4を意味する「Tetra」と、パジトノフ氏が好きだった「Tennis」を組み合わせたものだそう。
CESで同じ列に4回並んだ
続いてマヘシュワリ氏は、ロジャース氏にテトリスとの出会いを尋ねた。
当時、ロジャース氏は日本でゲームの開発・販売会社を経営し、販売するゲームを探して各国を回っていた。1988年、米ラスベガスで開催されたCESで見つけたのがテトリスだった。会場では、一つのゲームを2、3分試し、すぐ次の展示へ移るのが通常だったという。しかし、テトリスだけはもう一度プレイしたくなり、同じ列に4回並んだ。
「このゲームに完全にハマってしまった。一体これは何なんだ、と思いました」
当時は『スーパーマリオブラザーズ3』など、キャラクターやグラフィックを前面に出したゲームが人気を集めていた。テトリスは、図形を積み重ねるだけのシンプルな見た目だった。
ロジャース氏は、そこで囲碁を思い浮かべたという。囲碁も黒と白の石だけで成り立っているが、極めようとすれば非常に奥が深い。テトリスにも同じ性質があると感じ、日本での販売権を追うことにした。
その過程で、テトリスは当時の株式会社アスキーにも持ち込まれていた。しかし、アスキーは「レトロすぎる」と見送ったという。
マヘシュワリ氏が「テトリスは今も残っていますが、アスキー社はもうありません」と冗談を飛ばすと、ロジャース氏も「テトリスのほうが長生きしましたね」と応じ、会場から笑いが起きた。アスキーの系譜を継ぐ本媒体としては、なかなか印象に残る一幕だった。
ゲームボーイにはマリオよりテトリスを
ロジャース氏は日本市場でテトリスを展開した後、任天堂が発売を予定していた携帯ゲーム機「ゲームボーイ」に注目した。携帯ゲーム機向けのテトリスの権利を、まだ誰も確保していないと気づいたためだ。ロジャース氏はNintendo of America Inc.を訪ね、ゲームボーイへのテトリスの同梱を提案した。
任天堂側は「なぜテトリスなのか。私たちにはマリオがある」と答えたという。これに対し、ロジャース氏は次のように説明した。
「小さな男の子たちにゲームボーイを買わせたいなら、マリオを同梱してください。全員にゲームボーイを買わせたいなら、テトリスを同梱してください」
提案は受け入れられ、テトリスはゲームボーイの普及を支えるタイトルの一つとなった。ただし、ゲームボーイ版を発売するには、ソ連側が管理していた権利を整理する必要があった。ロジャース氏はその交渉のため、モスクワへ向かい、そこでテトリスの開発者であるパジトノフ氏と出会う。
パジトノフ氏がロジャース氏に親近感を持った理由の一つは、ロジャース氏自身もゲームデザイナーだったことだと話す。当時のソ連では珍しかった同業者との出会いが、その後も続く二人の友情の始まりになったという。
開発者であることをどう残すか
当時のソ連では、コンピュータプログラムを個人の知的財産として扱う制度が整っていなかった。パジトノフ氏がテトリスを作ったことを示す契約書もなく、権利は国側が管理していた。そのため、テトリスが世界で販売されても、パジトノフ氏には長い間、利益が入らなかった。
マヘシュワリ氏から当時の心境を尋ねられると、パジトノフ氏は、「まずゲームを世に出すことを優先した」と答えた。
「最初のゲームをしっかり出版してもらうことが重要でした。残りの利益は、自分の今後の創造性で補えばいいと考えたのです」
一方で、パジトノフ氏はテトリスをコンピューターゲームのコンテストに出品し、「著作権:アレクセイ・パジトノフ」と記載した。著作権という考え方が一般的ではなかったソ連で、自分が作者であることを公に示したことになる。
ソ連崩壊後、パジトノフ氏は1990年代にテトリスの権利を取り戻す。その後、ロジャース氏とThe Tetris Companyを設立し、二人でブランドを管理する体制を整えた。
10人で管理する世界的ブランド
現在、The Tetris Companyで働くスタッフは約10人だという。業務の中心は、ライセンス、商品化、マーケティング、会計、ブランド管理といった、知的財産を守ることだ。
各ライセンス先には、ゲームのルールや表現に関するガイドラインを設けている。新しい企業にライセンスを出す際には要求水準を少しずつ高め、テトリスが時代遅れにならないようにしているという。
さらにロジャース氏は、ゲーム開発者に対し、作品を登録し、作者であることを示す記録を残すよう呼びかけた。ゲームが広く知られても、誰が作ったのかわからなくなれば、作者が権利を主張することは難しくなる。テトリスの歩みは、作品を作ることと、その権利を守ることの両方が必要であることを示している。
40年後も遊ばれる理由
セッションの終盤、マヘシュワリ氏は、なぜテトリスが40年以上にわたって遊ばれ続けているのかを尋ねた。
パジトノフ氏は、暴力性がなく、キャラクターや物語にも依存しない点を挙げた。抽象的なゲームであるため、特定の登場人物や世界観を好まない人でも遊ぶことができる。
ロジャース氏は、今後の可能性として、テトリスを長く続く競技にする構想を語った。プロ選手の組織を立ち上げ、世界各地で定期的な大会を開催する計画もあるという。
テトリスはこれまで、国際宇宙ステーションでプレイされ、ドバイでは2000機のドローンを使った対戦も行われている。「空にテトリスを描くことが、私の2つめの夢でした」とパジトノフ氏は話す。
ゲームの仕組みは1984年から大きく変わっていない。それでも、遊ばれる場所や見せ方は広がり続けている。セッションは、テトリスが次にどこで、どのように遊ばれるのかを二人が楽しそうに語るなかで締めくくられた。
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