このコラムの筆者:マスク・ド・アナライズ
ITスタートアップ社員としてTwitterでAIやデータサイエンスにおける情報発信を行ない、業界内で注目を集める。現場目線による辛辣かつ鋭い語り口は、「イキリデータサイエンティスト」と呼ばれて存在感を発揮した。ネットとリアルにおいてAI・ データサイエンスの啓蒙活動を行いながら、同社退職後は独立。現在は企業におけるAI導入活用の支援、人材育成、イベント登壇、執筆活動などを手掛けている。
著書「これからのデータサイエンスビジネスは好評発売中。新刊「AI・データ分析プロジェクトのすべて」が12月21日発売予定。
日本において起業が盛んになり、「スタートアップ」と呼ばれる新たな技術やビジネスモデルで世間を賑わせる会社も増えました。起業には、世の中を変えたり株式上場で億万長者という夢がある一方で、思わぬ落とし穴も待っています。
本記事ではこうした負の側面にも注目して、天才エンジニアの起業ストーリーをご紹介します。
天才エンジニアの田中絵地尊の華麗なる起業
天才エンジニアの田中絵地尊(たなか えじそん)は、独自研究によって画期的な発電技術を生み出しました。
この技術を元に起業したいのですが、書類手続きやお金の管理がとても苦手で、一向に準備が進みません。
そこに絵地尊の技術を聞きつけたベンチャーキャピタル(投資家)が、起業支援と資金援助を申し出ました。
ベンチャーキャピタルから契約書の締結を求められましたが、絵地尊は技術に詳しいものの契約は全くわかりません。
「株式」「権利」「上場」「期限」などの単語が並ぶ契約書をきちんと確認せず、そのままハンコを押して「絵地尊総合電機」が誕生します。
絵地尊は発電機の試作品を完成させるため、助手となる佐藤手酢羅(さとう てすら)を採用して、自宅や移動中や外出でも研究ができるようにどこまで自由にデータへアクセスできる環境を整えました。
こうして開発は進み、発電機の試作品が完成します。
絵地尊が満足する一方で、助手の手酢羅は不満です。
技術的な問題を解決した手酢羅の功績も認めてもらうべく、株式のストックオプション(株式上場後に決められた金額で株を買える仕組み)を要求しました。
この要望に絵地尊は了承したものの、口約束であって書面には残っていません。
こうして試作品が完成しましたが、大量生産には工場が必要です。
イチから工場を作るのは難しいため大手メーカーと協業することになり、法務部から特許や責任や利益配分に関する分厚い契約書が送られてきました。
絵地尊はオンラインミーティングによる説明とクラウドによる契約手続きを提案しましたが、大手メーカーからは対面打ち合わせと書類による契約締結を求められます。
また、弁護士と弁理士に相談しても、書類と対面によるやり取りを希望されました。
非合理的な慣習だと憤る絵地尊でしたが、製品を早く世に出したい一心で、そのまま契約書にハンコを押します。
こうして大手メーカーとの協業が決まりましたが、会議ばかりで一向に進展する気配がありません。
意思決定を待っている間に絵地尊は運転資金が底を尽きかけてしまい、ベンチャーキャピタルから資金援助が提案されます。
完成前の倒産を免れるため、言われるがままに契約を締結して、追加の資金調達を行いました。
紆余曲折あったものの、大手メーカーとの協業によって次世代発電機の生産と販売が開始されました。
地球のエネルギー問題の解決につながるとしてとマスコミでも話題になり、「絵地尊総合電機」はユニコーン企業として話題を集めます。
こうして天才エンジニアである田中絵地尊の将来は明るい……でしょうか?
田中絵地尊の失敗と転落
次世代発電機は大ヒットしましたが、絵地尊総合電機にはわずかなお金しか入ってきません。
しかも技術的な特許やノウハウは、全て大手メーカーが権利を取得しています。
絵地尊が抗議しても、「成果物の所有権や利益配分は契約段階で決められており、絵地尊には協業した段階で十分な対価を支払っている」と、取り付く島もありません。
そして起業に協力したベンチャーキャピタルからは、絵地尊総合電機の株式上場が打診されます。
こちらも会社設立時の契約で決められた条件であり、追加の資金調達で株式の保有割合が減った絵地尊の意見は通らずに、株式上場が決まります。
上場直後にはユニコーン企業というイメージがあって、株価は急上昇します。
一方で株式上場を耳にした佐藤手酢羅は、約束していたストックオプションを要求します。
しかし絵地尊とは口約束なので証拠がなく、水掛け論となりました。
以前から絵地尊への不満が募っていた手酢羅は、なんと協業先の大手メーカーに転職します。
後日、絵地尊が研究していた独自技術が、手酢羅と大手メーカーよって発表されます。
実は手酢羅は独自技術の提供を条件に、大手メーカーに転職したのです。
情報管理ができておらず、手酢羅がデータを持ち出した証拠はありません。
競合他社の発表で絵地尊総合電機は業績の下方修正を余儀なくされて、いわゆる「上場ゴール」となりました。
追い打ちをかけるように、次世代発電機における致命的な欠陥が発覚します。
リコールによる改修作業を行いますが、責任と作業の全てを絵地尊総合電機が負担する契約になっています。
窮地に陥った絵地尊は謝罪会見に追われて、株式上場の利益はリコール費用に消えました。
事態の収集に追われて憔悴しきった絵地尊は、エンジニアとして新たな技術開発もできず、経営不振を理由に退任させられます。
イメージ悪化を恐れた後任の社長とベンチャーキャピタルにより、社名から絵地尊の名前が外されて「総合電機」に変更されました。
その後は、市場操作などに使われるハコ企業として一部で有名になります。
ある記者が絵地尊の行方を調べますが、中国のスタートアップで雇われ社長を勤めた後は、消息不明を絶っています。
こうして絵地尊の才能を利用して儲けたのは、大手メーカーとベンチャーキャピタルと佐藤手酢羅だったのでした。
法務に注力すべき理由、そしてメリット
敢えて誇張されたフィクションにしており、現実でここまで酷い展開はないでしょう。
しかし個々の問題は、実在する例をモデルにしています。
●トーマス・エジソンとニコラ・テスラによる電流戦争
●従業員の功績に対する対価(青色発光ダイオードやNAND型フラッシュメモリ)
●大企業とスタートアップの協業による失敗(セブン・ドリーマーズ・ラボラトリーズ)
●スタートアップの幹部が合弁先の大企業への転職(パネイルと東京電力)
●元従業員による機密情報漏洩(電気自動車のテスラ)
●ITベンチャーとして上場後の経営不振と不祥事(旧リキッド・オーディオ・ジャパン)
また、資金提供するベンチャーキャピタルとの揉め事や、従業員による長時間労働やハラスメントの告発などもあります。
スタートアップにおいて、このようなトラブルは珍しくありません。
劇中で絵地尊が取るであった行動として、下記が挙げられます。
●自身が経営者であることを認識する
●契約や法律の重要性を理解する
●弁護士や弁理士と顧問契約して相談できる環境をつくる
●自社が極端に不利になる契約締結を避ける
●独自技術に対する知財保護を行う
●資金調達におけるリスクを考慮する
●パートナーとなるベンチャーキャピタルや企業は慎重に選ぶ
●社員に対する労働環境や報酬体系の整備
契約、採用、知財、特許、報酬、資金調達などビジネスにおける様々な場面で、法務を避けることは出来ません。
スタートアップではプロダクト開発や技術力などが優先されがちですが、法務も重要です。
しかし“一部の”スタートアップにおいて、法務の扱いが低いのも現状です。
背景にはスタートアップを騙るブラック企業の存在、「上場しなければ法務整備は不要」という誤解、コンプライアンスの欠如などがあります。
よくあるパターンとして、社長が将来の上場とストックオプションを掲げて社員の長時間労働を正当化する事例がありますが、その会社が上場する可能性は限りなくゼロです。
このような問題はあまり表沙汰になりませんが、大抵の場合は情報を拡散してもデメリットの方が大きいので、社員が黙って辞めたり内密に処理されるものです。
では問題を避けるべく、経営者に法務の重要性を理解してもらうには、どうすればいいでしょうか。
ここで法務に注力すべき理由やメリットについて、紹介します。
まず、経営者や従業員が業務に集中できる環境作りにつながります。
スタートアップが手掛ける独自のビジネスモデルは、法的な判断が難しい場合もあります。
そこで法務体制を整備してすぐに相談できる環境を作ってリスクの言語化や見える化を進めれば、事業展開のスピードアップとリスク回避と両立させられます。
法務問題に悩む負担が減れば、経営層の意思決定や従業員の業務効率もアップするでしょう。
また、取引先や関係省庁との関係構築につながります。
スタートアップとの取引に慎重な大手企業はまだ多く、協業や出資や合弁会社の設立などでは特に慎重になります。
また、今までにない事業展開における法整備や団体設立などで、官公庁との関係づくりは欠かせません。
そこで法務体制が整備されていれば、相手が信頼できる材料につながります。
重要なのが、大企業や外資系企業との対等な取引です。
法務部門が弱いスタートアップでは、取引をはじめる前の契約段階で明らかに格下として扱われます。
法務が弱いと判断されれば、大量の文面にひっそりと不利な契約を混ぜたり、「契約内容を確認しましたが変更はありませんので返送します」というメールに変更済みの契約書を添付したり、「定型の契約書だけなので個別契約はできない」と言い張ったり、締切日直前に契約書を送りつけてこちらがチェックする時間を奪ったり、不可抗力における不具合や事故の責任を一方的に負わせたり、共同開発による成果を横取りされるでしょう。
こうした契約における問題を避けるため、締結前に専門家を交えた入念な確認を行いましょう。
契約後に問題が起こってから不利な条件を指摘しても、覆すことはできません。
またこうした法務強化の副次的な効果として、レピュテーション(評判・評価)リスクの管理があります。
スタートアップは口コミや知り合い同士といった横のつながりが強く、社員だけでなく取引先や出資者などから様々な情報が共有されます。
そこで法律やモラルを無視した企業という悪い評判が広まれば、人材採用や資金調達や取引先の開拓などに影響するでしょう。
このような背景もあり、スタートアップにおける法務の重要性が高まっています。
スタートアップが活躍する昨今は、「誰でも起業出来る社会」になりました。
一方で参加者が増えればトラブルも増えますし、少なからずルールを知らない人や無視する人もでてきます。
そしてルールを知らない人が失敗したり騙されても、それは自己責任でしかありません。
スポーツでも勉強でも遊びでも守るべきルールがあり、それは起業においても同様です。
そして起業は、あなたの大切な人生や仲間やお金をかけて取り組むものです。
事業を展開する武器であり自分を守る手段にもなる攻めと守りの法務知識を身に着けていきましょう。
ここで法務について、もっと詳しく知りたい方に朗報です。
特許庁が運営するIP BASEにおいて、スタートアップと法務におけるイベントが開催されます。
『【特許庁×SHIBUYA QWS】AI(人工知能)スタートアップに実体験で訊く“知財でしくじらない方法”』
「AI(人工知能)」をテーマに、知財専門家やAIに関わるベンチャー企業、プロジェクト担当者を招いて、AIでプロジェクトを進めるにあたって、知財の重要性を考えます。さらに詳しくは、上記リンク先のチケットページをご確認ください!
注釈:本記事は特許庁のIP BASEにて開催された勉強会「AIスタートアップを取り巻く知財・法務課題勉強会」の発表内容を元に作成されました。