冨田勝所長に聞く。“ダメ元精神でベストを尽くす” 庄内文化と人語(じんかた=人生を語る)が育む鶴岡発起業のマインド
鶴岡発スタートアップの継続する力はどのように醸成されたのか
この記事は、国内産業のイノベーション創出及び競争力の強化に寄与する活動を推進する、オープンイノベーション・ベンチャー創造協議会(JOIC)に掲載されている記事の転載です。
2001年の慶應義塾大学先端生命科学研究所の誘致から始まった鶴岡サイエンスパーク。2003年に冨田 勝慶應義塾大学教授らによって創設されたヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(HMT)株式会社を筆頭に、これまで9社のスタートアップが生まれ、そのすべてが存続し、成長を続けている。スタートアップは起業よりも事業を継続させることのほうがはるかに難しい。イノベーションのタネはどこから生まれ、事業を継続する力はどのように培われているのか。鶴岡サイエンスパーク所長の冨田 勝氏に話を伺った。
支援に頼らず、自力でやる意識がないとベンチャー・スタートアップは続かない
―鶴岡サイエンスパークからはこれまで9社のスタートアップが生まれています。研究から事業化までの流れに何らかの共通点はありますか?
それぞれの創業者は若手中堅、学生、いずれも個の突破力によって生まれたものです。私が起業を促したことはなく、むしろ、もう少し大学で基礎研究してからのほうがいいんじゃないの? と心配するくらい。でも本人がどうしてもやりたいと言うなら邪魔をしない、というスタンスです。
彼らは彼らなりにお金を集めて会社を設立し、その9社はいずれもまだ存続しています。ですから、鶴岡サイエンスパークのスタートアップがほかのスタートアップとは違う共通点をあえて挙げるのであれば、全部自分でやるという覚悟があった、ということでしょうね。
―しかし、研究開発にはお金がかかりますよね。学生の場合、何らかの支援がないと起業は難しい気がします。
NEDOなど行政の支援はありがたい。けれども、支援や補助金があるなら起業する、という人は鶴岡にいません。支援があってもなくてもやると決め、そこに支援等があればありがたく利用させていただく。この順番がすごく重要だと僕は思います。補助金等ありきで起業するマインドの人は、起業はできても、死の谷(デスバレー)と呼ばれる厳しい状況に陥ったときにおそらく嫌になってしまうでしょう。
国や自治体などの補助金は大変ありがたいので、ぜひ続けていただきたいとは思うけれど、それに頼って起業する、というマインドでは難局を突破できないと思います。
―いわゆるIT系スタートアップはエンジェルやVC、支援者との交流で資金調達について学びますが、冨田先生は、資本の集め方についてはどのようなお考えですか。
僕は、起業するなら最初の資金500万円か1000万円は全部自分のまわりだけで用意するべき、と言っています。自分の貯金、親や親戚、友人、友人の友人からまず集める。親戚や友人といった100パーセント応援してくれる人たちからもその程度のお金を集められないのであれば、他人に出資してもらうのはおこがましい話でしょう。
そして次に1億円を調達する段階では、なるべくエンジェル投資家を探すことを勧めます。
慶應義塾150周年記念で寄附を集めたら250億円集まったと聞いています。なんの見返りもない寄附よりも、出資のほうが夢があるはず。未来の社会のための新しいイノベーションだ、ということがきちんと伝われば、1口1千万円くらいを出してくれる人はどこかに必ずいるはずです。
―助成金だけでは期間が短く、研究開発スタートアップなどは苦労していると聞きます。投資を受けるためのアドバイスはありますか。
自分でエンジェルを見つけようとしたとき、真っ先に探すべきは、地元の名士、小中高および大学の大先輩、関連企業の社長会長などですね。損得勘定をこえて応援してくれそうな人を、いろいろなツテをたどって探すのです。
ただNEDOから支援を受けることは金額以上の意味があります。NEDOの審査をクリアして国から支援を受けたという実績がその後のエンジェルや機関投資家からの資金調達にも効いてきます。
―こうした起業の心がまえはどこから醸成されているのでしょうか。
やはり先輩の背中を見ていると思います。第1号のHMTは2013年に上場し、鶴岡市で唯一の上場企業として市民からの関心も高い。次のSpiber株式会社は未上場ながら資本金は数百億円に到達しています。代表の関山和秀君はメディアにもよく出ていますし、起業をまちぐるみで応援する雰囲気があるんですよね。10社目のスタートアップが立ち上がるとすれば、おそらく地元紙が記事にするでしょうし、まちの人も喜びます。先輩たちの苦労を含めて、周りの人が温かく見守っている。そういった空気から、自然と起業を考えるのではないかと思います。
―鶴岡サイエンスパークは今や広大な施設ですが、開設時は1棟だけだったと伺っています。先生は当初から複数のスタートアップが生まれることを想定されていたのですか。
2001年に慶應大学の研究所ができたときは2階建ての小さな建物だけ、十数人のスタッフで始まり、拡大する計画はありませんでした。その後、国から予算が取れたこと、またHMTなどのベンチャーの立ち上がりで場所が足りなくなったので、鶴岡市が2006年にインキュベーション施設を建てた。さらに、そこがいっぱいになったので、2011年にもう1棟が建ち、さらにスパイバーの本社を建て、スイデンテラスができ、と発展していきました。僕としては、こうなるとはまったく予想していなかったし、トップダウン的に長期プランを立てたわけでもありません。基本的には、個の突破力がほぼほぼすべてです。上がおぜん立てしてやるようでは、やるほうも面白くないですし。