知的資産部門と連携し、起業しやすい環境を整備。慶應ならではの学内スタートアップ・エコシステムの基盤を築く
慶應義塾大学イノベーション推進本部 スタートアップ部門 部門長・特任教授 新堂 信昭氏インタビュー
この記事は、特許庁の知財とスタートアップに関するコミュニティサイト「IP BASE」に掲載されている記事の転載です。
慶應義塾大学イノベーション推進本部 スタートアップ部門は、慶應義塾大学に集積する知識や技術、人材などを活用して、研究成果の社会実装やスタートアップ・エコシステムの形成を目指す組織だ。2023年度からはイノベーション推進本部に知的資産部門が移設され、連携強化を図っている。イノベーション推進本部 スタートアップ部門 部門長の新堂 信昭氏に、慶應義塾大学におけるスタートアップ・エコシステム形成の取り組み、知的資産部門との連携強化による支援体制の変化について伺った。
オープンイノベーション、スタートアップ、知的資産、戦略企画によるサポート体制
慶應義塾大学イノベーション推進本部は、大学の研究成果を産学連携によって社会実装するために2018年に設置された組織だ。2023年4月からはオープンイノベーション部門、スタートアップ部門、知的資産部門、戦略企画室の3部門・1室の組織体制を整え、連携しながら研究成果の産業化を推進している。
スタートアップ部門は2021年に設置され、新堂氏が部門長に着任した2022年3月から本格稼働となった。基本方針は、起業支援と起業後の成長支援の2つが柱だが、10学部・14研究科を擁する総合大学である慶應義塾大学は、キャンパスや学部・研究科によって社会実装に対する運営体制や 考え方も異なる。新堂氏を含むメンバー6名で(2023年12月現在)、支援やアプローチの方法を相談しながら取り組みを進めているそうだ。
「学生への支援対応は各学部・研究科の中でもやっているので、我々は学部・研究科からの要望に応じて、後方支援や学部・研究科間をつなぐのが役割です。
一方で、大学の教員の方々は従来の大学の役割として期待されている研究と教育が優先で、自ら起業することへの高い関心を有する方がそれほど多いわけではなく、研究成果でお金を稼ぐことに疑問を感じている方も多いのが現状です。お金を稼ぐことは結果であり、研究成果を社会に届けることの大切さを広めるところから始めています」(新堂氏)
教員の価値観が変われば、教員の影響を受けて学生の考え方も変わる。まずは戦略的に、教員への支援に注力しているとのこと。
支援対象を抽出するためのアプローチのひとつとしてが知的財産(以下「知財」)の情報を活用している。慶應義塾大学では1998年から知的資産部門(当時は知的資産センター)を有していたが、起業支援やオープンイノベーションの推進と知的資産部門との連携をより密接にするため、2023年4月からイノベーション推進本部内に知的資産部門を移設している。
「同じ本部の中に移設されたことで、知財の専門家の方々との対話の頻度が増えました。教員の方の研究内容だけでなく起業意欲などの情報も知的資産部門から入ってくるので、起業に興味がある教員については知的資産部門の方から紹介してもらい、スタートアップ部門で面談対応するスキームを構築しています」
研究者が経営に向いているとは限らない。日本にも客員起業家(EIR)の仕組みが必要
慶應義塾大学の研究成果の事業化支援としては、同大学が2015年に設立したベンチャーキャピタル(VC)である株式会社慶應イノベーション・イニシアティブ(KII)もある。KIIとはどのような役割の違いがあるのだろうか。
「スタートアップ部門とKIIとの役割の違いについて外部から質問を受けることがよくあります。学内では、起業するかもわからない段階から研究シーズにアクセスして、当該シーズに関わる教員や知財・ライセンス契約・利益相反に関わる担当職員と機密情報に触れながら喧々諤々と議論しています。起業の際には技術移転や研究室/事業との仕分けについての相談なども発生します。こうした大学内部関係者との対話を進めながら起業支援していくのは、我々のような内部組織の方が適しているでしょう。ですので、我々スタートアップ部門が学内から起業シーズを集め、KIIに紹介し、協働しながら起業に向けた支援を進めています。
KIIの方々とよくお話をしますが、対応するステージに違いがあると感じています。私たちが関わるステージは、まだ起業するかわからない、起業は1-3年先という方々が多い。しかし、VCの場合、ファンドの期限があるのでそこまで待てない場合もあります。我々とKIIではお互いにカバーするステージ範囲が異なります」(新堂氏)
イノベーション推進本部にスタートアップ部門が開設される以前は、KIIが起業支援を担っていたが、VCの立場でプレシード期やそれ以前からモニタリングし続けるのは限界がある。そのため、研究者が自ら事業計画書を作り、顧客を探し、VCと交渉する行動力がなければ、資金調達にたどり着けなかった。
「しかし、研究の成果や実績と事業スキルの有無は、必ずしも比例するものではありません。多くの研究成果を生みつつもビジネス経験はあまりない、という方のほうが大学にはむしろ多いでしょう。以前は、そういった方々のお話を聞いて伴走していくような支援組織が大学の中にありませんでした。面談をしている教員からは、『起業に向けた様々な相談に日々乗ってもらえる人が学内にいるのは、すごくありがたい』と言われます」
支援の枠組みとして新堂氏が参考にしたのは、欧米のエコシステムにおけるEIR(Entrepreneur in Residence:客員起業家)の役割だ。
「欧米では、VCの皆さんが大学や教員・研究者にコンタクトし新しい会社を作るための研究シーズやアイデアを探索しています。起業化の際には、例えば、大学発シーズを元にバイオベンチャーを設立する場合は、シーズを有する研究者は創業科学者や科学技術顧問として関与し、実際の研究開発や事業化のオペレーションを行うCEO/CSOや研究開発担当者は製薬会社などの事業会社の出身者であることが多いのです。また、VCではEIRの仕組みを取り入れており、EIRが起業に向けたサイエンスの評価や新規事業の立ち上げをリードし、研究者ともディスカッションします。このような形を参考に我々もEIRの仕組みを大学に取り入れています。研究もビジネスもできるスーパーマンみたいな教員ばかりではないですし、普通はビジネスパーソンがパートナーにいないと企業経営は難しいですから」
慶應義塾大学では、株式会社ビズリーチと連携協定を結んで、同学の研究シーズをもとに起業の準備を進める人材を公募する「慶應版EIR(客員起業家)モデル」を構築している。VCのEIRモデルとの違いはシーズ型であること。VCの場合、起業家がシーズを探索・評価することが多いが、慶應版EIRでは、先に研究シーズがあり、それをもとに顧客ニーズの調査や事業計画検討、会社設立準備などの起業に向けた活動を推進する起業家を募集する形だ。
「起業したい研究者の中には、創業科学者や科学技術顧問になればいいという方もいれば、CXOもやりたいと言う方もいるので、今はどちらも受け入れられる体制をとっています。将来的には、起業にはさほど興味がないけれど社会実装には興味があるという研究者のシーズについても事業化できるような形に広げていければと考えています。そのためには、経営のハンドリングを任せられるビジネスプロフェッショナルが集まる仕組みが必要です。慶應のEIRの仕組みを膨らませることで、そこまで展開できるようにしていきたいと考えています」
2023年10月にはこの慶應版EIRモデルを含めた個別化伴走支援を体系化した「慶應スタートアップインキュベーションプログラム(KSIP)」を開始した。
「これまでは、起業したい研究者の意向や事業計画案などに応じて、個別に対象を定めて都度EIRを求人しチームアップしていましたが、これからはEIR人材や支援人材に事前に登録いただくことで継続的にチームを増やしていきたいです。KSIPでは、起業検討を進めるチームとして参加いただき、各チームの課題に応じて足りないものをいつでも個別に提供できるような体制にします」
プログラムの目標は「起業」と「資金調達」の2つのゴールの達成だ。慶應の公式プログラムとすることでチーム同士がつながり、課題や成功体験を共有するコミュニティ形成による相乗効果にも期待している。リアルで集まれる場所として、信濃町キャンパスにインキュベーション施設を開設する計画もあるという。
スタートアップ部門の本格稼働から約1年半。これまで5チームを支援し、半年間で2社が起業している。なお、この2社は今もKSIPを利用して、2つ目のゴールである資金調達の達成を目指しているそうだ。
KSIPはディープテック・スタートアップの法人設立と資金調達を目的としているが、スタートアップ部門のミッションは学内の起業環境の整備から学生を対象としたアントレプレナーシップ教育による裾野の拡大、資金調達後の後方支援まで幅広い。各キャンパスの教職員や、KII、三田会(同窓会組織)とも連携しながら取り組みを進めている。
スタートアップ部門のリソースには限界があるため、学外の企業とも連携して支援を広げているそうだ。上述のビズリーチのほか、2023年5月にはスタートアップ関連情報のデータベース「STARTUP DB」を持つフォースタートアップス株式会社と連携、9月にはAWSジャパンと連携協定を結び、スタートアップに関するデータ収集や分析、計算リソースや技術・人材支援の提供などを受けている。
大学側のポリシーを設定すればライセンス交渉の期間を短縮できる
2023年度からイノベーション推進本部に知的資産部門が移設された。これにより、大学としての知財管理の方針やスタートアップへの知財支援にどのような変化はあったのだろうか。
「従来の特許出願や維持管理は引き続き行っています。知財のライセンスや譲渡条件などの意思決定をする会議体もイノベーション推進本部に移っています。変化があったのは、イノベーション推進本部のうちの3部門が1つとなったことで、知的資産部門だけでなく、スタートアップ部門とオープンイノベーション部門も会議に参加するようになったことです。すると、学内シーズの動きがすべて見えてくる。知財の事業価値については他部門のほうが詳しい場合もありますから、本部内のメンバーでお互いに情報を出し合い、多面的に評価する体制に移行しています」(新堂氏)
体制が変わってから、課題も見えてきたという。
「この体制になってライセンスの対価としてエクイティを含めどのように設定するかは、仕組みの整備が必要だと認識しています。また、スタートアップとのライセンス交渉に時間がかかり過ぎると、大学発スタートアップの足かせになり得る場合もあります。大学としてのポリシーや選択肢としてのオプションを定めておくことで、交渉の工数や時間が削減できるのではないかと考えています。
もう一つの課題は、交渉のタイミングです。事業計画がある程度クリアになり、投資家が複数入っている段階でライセンス交渉を進めると、より一層時間がかかる場合があるので、それより早い段階で交渉するほうがいい場合もある。しかし、事業計画がない段階ではどのように妥当な対価を決めるのか、という課題があります」
大学独自のポリシーを定めるため、内閣府の「大学知財ガバナンスガイドライン」を参考に策定を進めているそうだ。
より起業しやすい環境を整備し、学内のスタートアップ・エコシステムの基盤を築く
慶應義塾大学は2000年代から研究成果の社会実装に取り組み、2022年度には大学発スタートアップの数が全国の大学で3位となった。起業数が多い理由について伺った。
「2020年度は90社、2021年度は175社、2022年度は236社と起業数は年々増えています。慶應義塾大学からの起業は、ライフサイエンス系が多いのが特徴です。もうひとつはIT、サービス系。ディープテックではない学生や文系の学生の起業も最近伸びています。学生の起業を大学側が把握するのは難しく、また起業から把握までタイムラグが生じることも多いのですが、おそらく学生起業が多いのも慶應義塾の特徴だと思います。何かを成し遂げたい、その手段として起業したい、と思う学生が慶應には多いのではないでしょうか」(新堂氏)
湘南藤沢キャンパスのAO入試選抜者や慶應の一貫教育校から進学した学生は社会貢献意欲が高く、入学当初から起業を目指している学生も少なくない。すると、外部から一般選抜で進学した学生たちも影響を受けて起業意識が高まることもあるようだ。
ライフサイエンスなどの大学発ディープテック・スタートアップは収益が出るまでに長い開発期間を要するという。事業を継続する資金を支えるため、政府等からの補助金・助成金申請の支援や、顧客として大手企業やCVC、三田会(同窓会組織)などを紹介することもあるそうだ。
「ディープテックはJカーブを掘る形もありますが、事業の途中で売り上げを立てる方法もあると思います。そのためにも、顧客探索は重要。大学側もネットワークを広げ、その方たちを紹介していきたいと考えています」
スタートアップ部門では、5つの活動方針を定めている。1つは、学内外をつなぐ相談窓口の設置。2つ目は、キャンパスの活動支援。ピッチイベントの審査員やキャンパス間のネットワーキングなども含まれる。3つ目は、スタートアップの起業・成長支援。4つ目はインキュベーション施設の整備とインキュベーションプログラムの設置。5つ目はGAPファンドの導入だ。
「今は3つ目と4つ目に力を入れており、5つ目のGAPファンド検討はこれからですが、慶應義塾大学では、「Greater Tokyo Innovation Ecosystem(GTIE:ジータイ、首都圏を中心とした大学からなる「世界を変える大学発スタートアップを育てる」プラットフォーム)」に共同機関として参画しており、その中のGAPファンドを活用できるようになっています。ただ、必要なときに必要な額を大学の判断で支援できるように、少額でもいいので年度に関係なく出資できる枠組みを大学独自に作りたいと考えています」
最後に、今後のスタートアップ部門の取り組みについて伺った。
「設置からまだ2年足らずなので、まずは環境整備が必要です。知的資産部門との連携やEIR制度を含めた人材支援、VCや大手企業・連携パートナー、慶應義塾の卒業生・三田会などとの連携を深めることで、大学の中にスタートアップ・エコシステムを築くのが目標です。エコシステムは皆で作るものですが、そうはいっても学内に旗振り役がいないとなかなか進みません。起業に関するガイドブックや利益相反に関するルール整備、起業に関するコミュニティづくりなど起業しやすい環境を学内で整えていくことで、エコシステムの基盤となる仕組みを作りたい。その基盤ができると、起業に興味のある方々・シーズを有している方々がこのコミュニティに入りたい、起業家を含めた学外のステークホルダーの方々が関わりたい、と思ってくれることを期待しています。それが広がると、学内外や大学間そして国内外の連携も一層深まり、慶應発スタートアップの起業や成長の促進、海外へのアプローチなど進みやすくなると考えています」