科学技術振興機構の広報誌「JSTnews」 第108回
【JSTnews7月号掲載】特集2
数理モデルを駆使し、数学者が挑む「じんましん」発症のメカニズムの解明
2026年07月16日 12時00分更新
世界の5人に1人が経験するといわれる身近な皮膚疾患「じんましん」。その発症の仕組みは長く謎に包まれていた。京都大学高等研究院ヒト生物学高等研究拠点(WPI-ASHBi)の李聖林(いせいりん)教授は、皮膚に現れる皮疹(ひしん)のパターンを数学の目で読み解き、じんましんの病態を数理モデルによって表現。数学的アプローチの有効性を示すとともに、病態の解明や患者ごとに最適な治療の実現に挑む。脳内で数式を自在に組み立て、難治性の皮膚疾患の病態解明に奮闘する姿に迫った。
モデル動物なく発症過程は謎
難題が研究者魂に火を付けた
じんましんは身近な皮膚疾患だが、発症の詳細な仕組みはよくわかっていない。じんましんはヒトと馬、チンパンジーにのみ発症する疾患で、マウスのような実験用モデル動物を作れないからだ。じんましんの中でも、症状が6週間以上続く「慢性じんましん」は治療が難しく、数年以上にわたって悩まされる患者もいるため、その病態を解明することは医学界の長年の課題になっている。
この課題に、数学者という立場から従来と全く異なるアプローチで挑んだのが京都大学高等研究院の李聖林教授である。李さんはもともと、チューリングのパターン形成に興味を持ち、生命の発生過程や動物の体の表面に現れる模様がどのように形成されるのかを数理モデルで理解する研究をしていた。ヒトの皮膚に現れる模様は、体内の状態が体の表面に「形」として現れる現象であり、体内の状態を表す数理モデルを構築して皮疹の模様を再現できたら、逆に、そのモデルを通して皮膚の模様から体内の状態を推定できるという考えだ。
李さんがじんましんの研究を始めるきっかけとなったのは、じんましん研究の第一人者である広島大学の秀道広(ひでみちひろ)教授(現 広島大学名誉教授)から「じんましんの皮疹の模様を数学的に解けないか」と相談を受けたことだった。規則性のない複雑な模様を数理的に記述するのは数学においても極めて難しい問題。李さんは数学者で、じんましん発症の仕組みなどまったくわからない。「絶対に無理だ、断りたい」と気後れしたが、同時に「できなさそうだからこそ挑みたい」と研究者魂に火が付いた。
皮疹パターンの生成モデル
医療現場で役立つよう刷新へ
じんましんの主な原因は、免疫に重要な役割を持つ化学物質であるヒスタミンの過剰な放出だと考えられている。皮膚の中にあるマスト細胞と呼ばれる免疫細胞がアレルゲンなどの外的刺激を受けてヒスタミンを放出することで血管の壁(内皮細胞)に隙間が形成され、そこから漏れ出した血漿(けっしょう)成分などが、皮膚に数mmから数cmの赤みや膨らみを持つ皮疹を作る(図1)。この際、放出されたヒスタミンは、さらにマスト細胞からのヒスタミン放出を促すという正のフィードバックが働く。
しかしヒスタミンの放出だけでは、皮疹は皮膚全体に一様に出てくるだけで、皮膚に現れるさまざまな形状のパターンを説明できない。そこで李さんは、ヒスタミンの放出だけでなく、ヒスタミン放出を抑制する仕組みも取り入れて、患者の体内の状態を数式として表した数理モデルを考え出した(図2)。
この式は、物質が時間の経過とともに空間へ広がっていく現象を記述する「反応拡散方程式」を基本形に、マスト細胞からのヒスタミン放出を表す項(右辺の2番目)や、ヒスタミン放出の抑制を表す項(右辺3番目)などを記述したものだ。1行の式で模様の時空間的多様性の本質を捉えている「数学的に美しい式」と李さんは語る。
この数理モデルにより、皮疹のさまざまなパターンを生成できることを示せたが、李さんはそれだけでは満足できなかった。このモデルでは、現実世界で見られる詳細な病態を表せない上、患者に対する薬の効き目を評価できないため、医療現場で十分に役立つとは言えないからだ。そこで、広島大学大学院医系科学研究科の研究者らと共同で慢性じんましんにターゲットを絞った新たな数理モデルを作成することにした。
皮疹の形状を5つに分類
体内状態を基に治療法を判断
共同研究は、広島大学のチームが培養細胞での実験結果に基づいて慢性じんましん患者の体内で起こっていることを推定し、李さんがそれを数理モデルに“翻訳”するという体制をとった。広島大学のチームが推定した皮疹発生の仕組みはこうだ(図3)。
まず、血管内を流れる白血球の一種である好塩基球と皮膚の中のマスト細胞が、外部からの刺激を受けてヒスタミンの放出を開始する。すると、好塩基球からのヒスタミンによって、血管の壁である内皮細胞が、血液の凝固反応を開始させるたんぱく質である組織因子を発現。さらに、組織因子によって活性化された血液凝固因子が、好塩基球のヒスタミン放出を促進する。
一方で、組織因子の発現で活性化した血液凝固因子の一部が血管外に漏れ出し、マスト細胞を刺激。この刺激により、マスト細胞は大量のヒスタミンを放出し、血管内皮細胞の隙間はさらに広がる。すると、血液凝固因子がさらに漏れ出してマスト細胞への刺激が強まり、ヒスタミンがますます多く放出されるようになる。
李さんはこうした一連の仕組みを、4つの方程式から成る数理モデルとして表現した(図4)。このモデルを用いて、ヒスタミンの放出率や拡散のしやすさをさまざまに変えてコンピューターシミュレーションを繰り返し実行した。すると、ヒスタミンの分布パターンが、「環状」「途切れた環状」という境界が膨れるパターンと、「地図状」「円形」「点状」という領域が膨れるパターンの合計5つに分類されることがわかった(図5上)。
そこで、この結果に基づいて臨床の現場で活用できる「皮疹形状の分類基準」を開発し、皮膚科医に105人の慢性じんましん患者の皮疹の画像を見せてこの基準に沿って分類してもらった。すると、87.6%の患者を5つのパターンのいずれかに分類できた。医師たちは、皮疹にいくつかのパターンがあることはわかっていたが、形状や体内の状態を数式で表せるとは想像もしなかったため、この成果を非常に喜んでくれたという。
李さんらはさらに、数理モデルを解析することで、血管内皮細胞の組織因子の発現度合いやマスト細胞のヒスタミン放出度合いのバランスによりそれぞれのパターンが生成される仕組みであることを特定した(図5下)。皮疹が発生して消えるまでのフェーズや形状の多様性に、好塩基球とマスト細胞がそれぞれどれくらい関与しているかも調べた。じんましんの治療には現在、抗ヒスタミン薬が基本治療薬として使われているが、約3割の患者では十分な効果が得られていない。数理モデルにより皮疹の形状から患者の体内状態を推定できれば、例えば、点状膨疹に対しては好塩基球を標的とした治療が特に効果的だと判断できるようになる可能性がある。
図3 広島大学のチームが培養細胞での実験から推定した慢性じんましん発症の仕組み。刺激を受けると、血管内にある好塩基球と皮膚にあるマスト細胞からヒスタミンが放出され、それによって形成された血管内皮細胞の隙間から血漿が漏れ出して皮疹が形成される。アデノシンはヒスタミン放出を抑制する物質。
数理生物学を学びに復帰・留学
学問の枠にとらわれない視点
じんましんの病態を数学で鮮やかに解明した李さんは、最初から数学者を目指していたわけではない。韓国・釜山で生まれ育ち、建築学を志望していたが、女性に工学部は向かないとされていた時代、消去法で理学部の数学科へと進学した。ここで純粋数学を学んだことが、李さんの土台となった。「紙も鉛筆も使わずに数式や数学の構造を脳内で処理できるようになりました」と李さんは笑う。
人生の大きな転機は、韓国で修士課程を修了して、来日後に訪れた。日本語をゼロから学びながら専業主婦生活を送っていたある日、ふと手にした書籍に心を奪われた。その本には生物の侵入と伝播(でんぱ)の過程が数理モデルで説明されており、記号と論理の世界と思い込んでいた数学が生物学と結びついていることに大きな衝撃を受けた。
さらに、天才数学者アラン・チューリングが提唱した、生命のパターン形成が生まれる仕組みを数式で説明する理論である「チューリング・パターン」の美しさに感銘を受け、数理生物学を学ぶために岡山大学大学院に入り4年ぶりに研究の世界に復帰した。博士課程在籍中はパターン形成の数理モデリングを本格的に学ぶため、英国オックスフォード大学へ留学。1年という短い期間ではあったが、研究に没頭した結果、優秀な研究者たちから仲間として認められ、今に続く国際的な数理生物学の研究者ネットワークを築いた。
回り道にも見えるキャリアは、李さんに既存の学問の枠にとらわれない視点をもたらした。オックスフォード大学で研究を続けるうちに「数理モデルを作るには、その対象となる生物の現象を丁寧に見ていく必要がある」ということに気付いた。「生命の謎は、生命自身が語ってくれる」という考えのもと、ありのままの現象を数学者の目で観察する。この姿勢こそが、李さんいわく自身の最大の強みであり、誰も解けなかった皮膚疾患の謎を解き明かす原動力となった。
個別化で最適な治療を提供
「数理皮膚医学」創出が目標
数理モデルでは、「どの現象の、どんな仕組みを明らかにするか」を軸にして、研究者がゼロから方程式を組み立てる。「数理モデルは無限の組み合わせの中から、『何が見たいか』を軸にして立ち上げていきます。そこには数学者の職人技ともいえる感覚が必要です。しかし、数理モデルだけでは、数理研究が基礎研究だけにとどまってしまう。未来の数理は今以上の変革が必要です」と李さんは語る。
李さんの興味は基礎研究にとどまらない。治療に向かう医師の真摯(しんし)な姿勢に感化され、「美しい数式を追い求めること」だけでなく「患者を救うこと」にも意識が向くようになった。現在、じんましんの患部をスマートフォンで撮影するだけで、その形状から体内の状態を推定するシステムを開発中だ。この研究には、数理モデルだけではなく、最先端のデータ科学とAIも融合されている。実現すれば、体に負担のかかる検査なしで、最適な治療法を導き出す個別化医療につながる可能性がある。創薬の分野では、皮疹のパターンから推定した体内状態に基づいて治療薬を開発できれば、治療期間を短縮したり慢性化を防げたりするかもしれない。
皮膚の疾患には未解明の領域がまだまだ残されている。李さんは、「できそうな研究ではなく、夢を見るレベルの研究を目指したい。将来は数理皮膚医学という新分野を創り出したいです」と意欲を見せる。
CRESTのように大きなプロジェクトには、やりがいだけでなく大きな責任も伴う。困難な目標に挑む自分を奮い立たせるために、あえて苦手なランニングを始めた。大型プロジェクトを走り抜けるために、気力・体力を充実させて臨む。既存の学問の枠にとらわれない視点で数学と医学の境界を飛び越え、未来の医療を創ろうとする李さんの探求は、今日も力強く続いている。
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