未だ残るスタートアップと投資家の意識のズレ。大学発事業創出で見た知的財産の多面的活用とは
知財のプロが語るスタートアップとの新しい働き方
この記事は、特許庁の知財とスタートアップに関するコミュニティサイト「IP BASE」に掲載されている記事の転載です。
弁理士の奥谷雅子氏は、文部科学省の大学発新産業創出拠点プロジェクト(START)の事業プロモーターとしての参加をきっかけに、10年以上にわたり専門のバイオ分野だけでなく多ジャンルのスタートアップの支援に取り組んでいる。大手企業の知財部、海外企業・大学の権利化業務など幅広い経験を持つ奥谷氏に、スタートアップの知財戦略のポイント、弁理士としてスタートアップとの付き合い方について伺った。
大学発新産業創出プログラム(START)で感じた
投資家を意識した知財戦略の重要性
奥谷氏は農学部の出身。大学院ではバイオテクノロジーを研究し、修了後は大手食品会社の生物化学研究所を経て、国内製薬会社に転職。薬事申請や試験法の開発に携わっていたが、出産を機に退社。セカンドキャリアとして選んだのが弁理士の道だ。
「研究者として特許は身近なものでしたし、何か資格を持っていたほうが子育てしながら働きやすいだろう、と考えたのが弁理士を選んだ理由です。もうひとつは、まだ社会人になって間もない頃、ある製品に関わる特許を押さえていなかったことから大問題になったことがありました。社内弁理士が特許にならないと判断し、あらゆるチェックをすり抜けてたものが、会社を揺るがすほどの大事になってしまう。特許って何だろう? とずっと引っかかっていたんです」(奥谷氏)
2005年に弁理士に登録し、特許事務所に入所。そこでは、化学、有機化学、バイオ系の大手企業や海外の大学の権利化業務が中心で、まだスタートアップとは接点がなかった。
最初のスタートアップとの関わりは、2016年に佐藤総合法律事務所に移り、事務所顧問先が事業プロモーターとして参画していた文部科学省の大学発新産業創出拠点プロジェクト(START)の知的財産面の支援が始まりだ。
「事務所に入所してすぐにお手伝いに入りました。当時は、2000年代のバイオベンチャーブームが落ち着いた端境期でしたが、まだまだ投資家や行政の支援があり、大学発のバイオベンチャーがどんどん生まれていたころ。地方大学の医学部発バイオベンチャーや工学部発の素材系ベンチャーやロボットベンチャーなど、アライアンスを含めて会社として自立を目指してサポートしました。
契約と投資まわりは弁護士が担当し、私はその契約の要として知財を見るわけです。前職の特許事務所ではいわゆる権利化業務を担当していましたが、知財の側面として、資金調達やアライアンスなどの会社の成長を意識しながら権利の取得や申請していくことが必要だとわかりました。大学の先生方は研究論文と同じような感覚で特許出願されることが多く、それをスタートアップが引き継ぐと、権利範囲が事業を保護するに足りないことが多いため、投資家からの評価が下がってしまうことがあります。自社が権利を実施するためであればピンポイントで権利化するのでもいいですが、資金調達の際は、ピンポイントでの弱さを指摘されることもあります」
スタートアップと投資家の知財に対する意識のズレは、2000年前後の日本のバイオテクノロジーベンチャーの黎明期から約20年が経過した現在も一定程度あると感じているという。
「少しは変わってきましたが、数年前のスタートアップは、投資のために出願するという考え方自体がまだまだ低かったように思います。将来の独占やライセンスの視点はあっても、投資家への意識はありませんでした。出願しても1年半は公開されないので、その間に何ができるかを考える猶予は十分にあります。出願後に国内優先などを使って乗り換えることもできますから、権利化の成否にとらわれずにどんどん出願するといいと思います」
出願するか否かに関わらず、将来どんなビジネスの可能性があるのかを考えて、長期的な目線で知財戦略を立てておくことは大事だ。奥谷氏は、5年、10年先にどんな会社になっていたいのか。そのためには3年後にどんな技術の権利をどの国で取るといいのか、というような会社の成長の青写真を一緒に考えるようにしているそうだ。
奥谷氏は、以前の事務所で海外企業やシリコンバレー関連の大学発ビジネスの知財に携わってきた。米国の知財の取り方はどんなものだろうか。
「海外から入ってくる案件は、非常に丁寧に出願しているイメージを持っています。特許庁の中間処理の内容についても、私たちの提案で納得いただけなければ、とことんディスカッションしますし、審査判断を覆すためのロジックを明確に詰めていきます。そのため、海外では出願の段階から特許の価値を認めているように感じていました」
業界内の横のつながりで得られる情報は知財調査よりも有効
現在は、農林水産省の生物系特定産業技術研究支援センター(BRAIN)の評議員や、東京農工大の千葉一裕学長がプログラムディレクターを務めるムーンショット型農林水産研究開発事業の知財支援に参画するほか、事務所としても多彩なジャンルのスタートアップを創業段階から幅広くサポートしている。スタートアップの支援で特に大事にしていることを聞いた。
「いちばん避けなくてはいけないのは、やりたい事業ができなくなること。そのためには、従来技術の自由実施の調査(FTO調査)はやったほうがいいとは言います。ただし、特許調査をしても、誰が何を出願したのかは、最長で1年半はわかりません。データベースはほぼ毎日更新されているようなものなので、数百万円かけて世界中の知財調査をするよりも、早期審査などを利用して出願したほうが効率的なビジネスジャッジに資する場合もあると思います。資金力の乏しい段階ではハードルは高いですが、長い目で見ればコストパフォーマンスもよく、最善というケースが実は多いように思います」(奥谷氏)
一方の商標は、出願のタイミングを重視しているという。
「商標に関しては、後になればなるほど有利になることがあります。例えば、ビジネス展開がしっかり定まっているのであれば、ここぞというときにネーミングを定めて、メディアに出す前のタイミングで出願したほうがいいでしょう。あるいは、まずは地道に売っていき、一定程度の信用が確定してから商品を絞って権利化し、築いた信用にフリーライドしてくる人をブロックする手もあります」
近年国内でも企業数が増えているディープテックの場合、業界のつながりから情報を得ることも大事だという。
「分野が狭ければ狭いほど、周りのプレーヤーのことをよくわかっているのではないでしょうか。特にスタートアップの経営者は横のつながりを大事にしているので、その関係性の中であえて権利化しなくてもいい、と判断することがあってもいいと思います。新分野は、あるタイミングに出願が集中する傾向があります。例えば、2019年頃は検体から診断する医療系のビジネスモデル特許が増えました。出願しても1年半は特許データベースに上がってこない技術があるかもしれません。そのため、業界の横のつながりから動向をよく見るようにアドバイスしています。似た研究があれば学術論文を探ればある程度は調べられますから」
しっかりアンテナを張っている経営者や技術責任者は、類似の研究をしている海外の会社名をすぐに挙げられるという。すると、先願を早く見つけられ、有利な戦略を立てやすい。
ビジネスモデルと知財を結び付けて考えると、取るべき権利が見えてくる
多数のスタートアップに関わり、知財調査から特許の明細書の作成まで丁寧に支援してきた奥谷氏。ようやくスタートアップの知財戦略の勘どころがつかめてきたという。では、スタートアップが特許を取る際のポイントとはどこにあるのか。
「知財をビジネスモデルと切り離して考えないこと。何をやりたいのか、どこで会社が利益を上げるのかをまず明確にすると、そこから何を権利化すべきなのかが見えてきます。『今までにない、素晴らしい技術だから権利が取れる』というような発想で出願するケースが多いですが、会社としては、どこで利益に結び付くのかを見極めることが大事です。
ビジネスモデルの例となりますが、樹脂加工メーカーであれば、素材供給メーカーと最終製品の納品先である販売企業のほかに、中間加工処理を行う複数社と関わることがあります。そのような場合は商流を考えて、自社実施以外の発明についても特許として押さえておくべきかを検討します」(奥谷氏)
先のわからないスタートアップにとって、精緻なビジネスモデルの見極めは難しい場合がある。一方で、企業価値を知財で表現する場合には、ある程度決め打ちしたところでの出願も必要になる。奥谷氏は、積極的にコミュニケーションを取りながら、落としどころを見つけて出願に結び付けていくようにしているという。
ある支援先のスタートアップは、実証実験前のビジネスモデル特許を出願したところ、大きなファイナンスがついたという。ビジネスモデルとうまく結びついた知財は、投資家からの評価につながってくる。
奥谷氏は特許庁のアクセラレーションプログラムであるIPASにも参加している。
「今まで、権利化業務だけでなく調査まで幅広くやってきたことが役立っていると思います。調査会社からの結果を見ても、経営者が事業に活用できている例はまだ少ないと感じています。私も権利化業務をやっているだけでは、調査のことはわからなかったと思います。スタートアップと深く関わり、一生懸命調べていくようになって、やっと事業性と権利化業務と調査業務とのすり合わせが重要であることがわかってきたところです。IPASでは、ビジネスメンターはビジネスの話をして、知財メンターは知財の話をします。経営者はそれらを結び付けて考えなくてはいけません。決断の早い人もいれば、慎重に考える人もいますから、相手のペースに合わせて、壁打ちの相手としてお付き合いすることが大事だと思っています」と奥谷氏。
ビジネスと知財の関係性が理解できれば、自力で戦略を立てられるようになり、その後の事業成長にも効いてくる。
「知的財産制度や権利範囲の考え方は、自転車に乗れるか乗れないかのようなものです。始めは1、2件真剣に取組むことで、コツをつかんで徐々にスムーズに利用できるようになると思います。一見取り掛かりにくい制度や考え方ではありますが、知財戦略への取り組みに消極的だったり、弁理士に任せっぱなしの経営者はまだ多いように思います。資金調達やアライアンスのような経営に関する意思決定に比べれば、それほどハードルは高くないので、ぜひいい弁理士を見つけて相談していただきたいです」
専門家とスタートアップは長く付き合うことでお互いに成長する
スタートアップはなかなか相性のいい専門家に会えないという悩みもあるが、奥谷氏は、必ずしも経験豊富でなくても、長く付き合える専門家を見つけてほしい、と話す。
「あるクライアントとは、前の事務所から10年以上お付き合いいただいてます。私の専門とは少し違う技術分野だったので、最初のころは毎週勉強会に参加させていただいていました。基本的なところから技術を教えていただき、定例で打ち合わせを行っていきましたが、数年後には『前回はこれがダメだったから、今回はこれで行こう』と次の手がイメージできます。長くお付き合いすると弁理士も育ちますし、どんどんいいサービスを提供できるようになると思います」とのこと。
出願に失敗しないように、実績のある専門家に依頼したいのは自然なことだが、特許は権利化や活用には、数年先を見据える必要があるため、長く付き合える専門家と一緒に知的財産を成長させる選択肢もあるのではないか。
日々スタートアップと接する中で、奥谷氏はまず安心してもらうことを心がけているそうだ。
「スタートアップは不安があって相談にやってきます。そこで商標権が取れたら、1つ土台ができたと安心される。経営者が安心して自分たちの事業に自信を持ってもらえるのが、知財のいちばんの成果です。心がけているのは、スタートアップに過度な負担と心配をかけないことですね。知財の問題は、初期対応で失敗してはいけないものと、後で何とかなる部分とがあります。失敗してはいけないものはきちんと説明しつつ、後で対処できるところは、まだ大丈夫ですよ、と安心させてあげることが大事だと思います。全部を説明して100点満点を求めるとパンクしてしまいますから」(奥谷氏)
最後に、これからのスタートアップエコシステム、弁理士に求められる役割について伺った。
「専門分野に固執する雰囲気が変わっていくといいと思います。スタートアップが相性のいい弁理士と出会えない原因のひとつに、人としては信用できるのに、経験が少ない、あるいは専門分野が違うことで出会いのチャンスが失われているように思います。
特に、シード期の会社は将来どの領域に進むかがわからない場合もあるので、特定の専門分野の弁理士には相談しづらいのではないでしょうか。また、会社にとっては、特許だけでなく、商標や意匠を先に取るほうが実効性が高い場合もあります。取引先や関連団体など、周囲との関係性から権利化を避けたほうがいいこともあります。これからの弁理士は、いろいろなタイプのスタートアップを支援できるように、視座を高く持ち、自分の専門でない分野や業務についても幅広く対応することが求められると思います」