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「avenue jam」特別対談 第12回

Planetway代表 平尾憲映インタビュー 第1回

大学の難問解ける中学生が「日本を出たい」と思ったワケ

2018年01月23日 09時00分更新

文● 盛田 諒(Ryo Morita) 編集● ASCII

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 世界を変えられると本気で信じたものが時代をつくってきた。テクノロジースタートアップ・プラネットウェイの平尾憲映代表のビジョンは壮大だ。情報国家エストニア生まれの個人情報管理技術をコアに、いまのインターネット市場を破壊する新たな情報インフラをつくろうと考えている。現在の事業基盤は同社独自技術を売りにしたシステム開発。東京海上日動などの一流企業をクライアントにし、今年の1月には、総理とエストニアに同行するなど注目を集めている。現在同社はビジョンの実現に向けさらに事業を成功させたいと考え、新たなメンバーにあなたのような逸材を採用したいと考えているらしい。まずは平尾代表が何者なのかを知り、メールを送るべき相手か判断してみたい。(全4回)

少年・平尾憲映

── 既存のインターネット市場を破壊したいということですが、どんな子供時代を過ごしたらそんな大それた発想ができるようになるんでしょう?

 4歳のころオーストラリアで暮らしたことがあり、そのころから地球人的志向をもてる環境にいたといえると思います。母親はなかなかぶっとんだ人で、英語もわからない4歳児に「はじめてのおつかい」みたいに買い物をさせたんですよ。ぜんぜん記憶はないんですが「よく買ってきたね~」と言われていたみたいです。

── 親の英才教育あってのことだった。

 ぼく自身がいわゆる問題児、日本の教育では受け入れられない子供だったというところもあると思います。計算がとにかく得意だったんですよ。だから小学校のころからみんながやるような5課目を勉強するのが合わずに、高校や大学の勉強をするのが好きになって。中学校にあがってからは先生に対して食ってかかるようになりました。数学の授業中「こっちのほうがいいんじゃないですか?」と出ていって黒板の数式を直してしまったり。結果、テストの点数は良くても成績は悪くなりましたね。

── ご両親は何をされていたんですか?

 自動車と不動産関係の事業をやっていて、自動車は販売・修理・整備などを幅広くやっていました。いわゆるカーディーラーです。当時は自動車がホットな時代だったんですが、父親は中卒で学歴がなく、業界に入ることは難しい、おまえなんて絶対に無理だと言われていた。それでも自動車の事業をはじめたという考え方が、自分の中ではベースになっています。仕事柄、自宅と職場が一緒になっていたというのも独立志向に影響したと思います。まだ小さかったので記憶はほとんどないんですが、事業が軌道にのるまでは数年間は休み無く、深夜2~3時くらいまで働いていたとも聞いています。それもあり5歳くらいまでは「世界の童話」の朗読テープを聞きながら眠っていました。いまのトーク技術は当時のテープに学んだところもあるんじゃないかと。

── 14歳のころカナダに短期留学しています。

 中学2年生になり、恩師と呼べるような良い先生に会えたんです。計算をしていたところを見て「もう授業は受けなくてもいい」と言ってくれた。「普通の先生はいい評価をしないかもしれないけど、おまえは好きなことをやったほうがいい」と。その言葉を受けて、カナダのサマースクールに行きました。僕が最年少でみんなかなり年上で、それもコロンビア大学に行くようなレベルの生徒が集まっていたので衝撃を受けました。当時、自分では頭が良いほうだと思っていたんですが、上には上がいるんだと思い知らされて。当時の友達とよくやっていたのは「テストを5分以内に解いて満点をとったら勝ち」という遊び。そのゲームではわりと勝たせてもらってました。

── その後アメリカに渡りました。

 NHKで、NASAが皮膚ガンの患者を助けるために1枚70万円くらいするジャケットを無償提供するという番組をやっていたのを見たんです。アメリカにこんな機関があるんだと知り、そこからアメリカがあこがれの国になりました。高校生になって交換留学生に出会い、マインドセットがまったく違うことにも驚かされました。「将来はゴールドマン・サックスに入って30代で引退するんだ」と言うんです。そのとき行くことを決めていた。親の反対もありましたが、親に勘当されても行くんだと考えていました。

(第2回に続く)

(提供:プラネットウェイ)

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