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石井裕の“デジタルの感触” 第3回

石井裕の“デジタルの感触”

混迷するユビキタスの未来

2007年07月29日 21時11分更新

文● 石井裕(MITメディア・ラボ教授)

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宣伝色に染まった「ユビキタス」


「ユビキタス」(Ubiquitous)の文脈は今ひどく混迷している。

「至る所にある」というユビキタスの辞書的な意味が転じて、日本のメディアでは「いつでも・どこでも」ネットアクセスできる多機能モバイル・コンピューティングという意味で使われているように思える。1台の大型コンピューターを共有するメインフレームの時代から、1人1台のパーソナル・コンピューターを経て、各人がたくさんのコンピューターを使うユビキタスの時代──という未来像は、小型情報通信機器の販売を促進する旗としては、確かに有効な宣伝コピーではある。

 しかし、「いつでも・どこでも」(any time, any place)は、何ら新しい概念ではなく、かつて「高度情報化社会」や「マルチメディア社会」が華々しく論じられたときに、何度も出てきたスローガンだった。では、ユビキタスもそれらのスローガンと同様、一時的な流行歌に過ぎず、時が経てばすぐ忘れ去られてしまうのか。ユビキタスに未来はないのか。

 それは、ユビキタスの原点の理解にかかっていると思う。



ユビキタス・コンピューティングの原点


 今は亡きマーク・ワイザー(Mark Weiser)がユビキタス・コンピューティングの概念を「The Computer for the 21st Century」(21世紀のコンピューター)と題した論文として「サイエンティフィック・アメリカン」誌に発表したのは'91年だった。

 その論文は以下の文章で始まる。

「最も深い技術とは、見えなくなるものである。日々の生活環境と区別がつかないほど、その中に溶け込む。※1

※1 原文は「The most profound technologies are those that disappear. They weave themselves into the fabric of everyday life until they are indistinguishable from it.」(Weiser, M. The Computer for the 21st Century. Scientific American, 1991, 265(3), pp. 94-104.)

 この冒頭の文章が、ユビキタス・コンピューティングの精神と哲学を最も明快に示している。コンピューターが「環境にすっかり溶け込み消えてしまう」ことがそのビジョンであり、それはまさにテクノロジーの浸透した世界を人間がどのように認知するのかという観点から、インターフェースの理想を描いたものである。

 しかし残念ながら、この論文の中で紹介されていた具体的なプロトタイプ(大小さまざまなスクリーン付きの情報通信端末)は、彼の理念である「見えないコンピューター」を十分に説明するレベルには達していなかった。

 彼がこの論文の中で使った「ユビキタス」というラベルは、彼が本当に実現したいビジョンにふさわしいラベルではなかった。

 コンピュータが1人あたり何台あるか、それが分散しているか、集中しているか、携帯型か、環境埋め込み型か──それらは、彼の究極のインターフェース理念とは本来無関係のはずであった。後にワイザーは、「Calm Technology」(穏やかな技術)という言葉を使って環境的(アンビエント)なインターフェースを強調しようとしたが、「遍在するコンピューター」と誤解されたユビキタス・コンピューティングは、すでに一人歩きを始めていた。


(次ページに続く)

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