デジタルに欠ける身体の痕跡
MITメディア・ラボに赴任した'95年から、私はグラフィカル・ユーザー・インターフェース(GUI)の次に来る、新しいヒューマン・コンピューター・インタラクション(HCI)の形を追究する研究を始めた。そして、デジタル情報に物理的実体を与えることにより、情報を直接両手で触れて操作できるという「Tangible Bits(タンジブル・ビット)」のコンセプトを生み出した。その背景には、現在のデジタルメディアに欠如している身体性に関する根本的な問題意識が横たわっていた。
使い込まれた物理的なメディアにはあって、デジタルメディアには欠けているもの──それは、身体の痕跡だ。このことを強く感じさせてくれることになった、10年前のエピソードを今回は紹介したい。
肉筆原稿に残る創作の痕跡
三十数年住み慣れた日本を離れ、MITに赴任した'95年の春、私は長年の夢だった宮沢賢治の故郷、花巻市を訪ねた。学生時代、夜行列車を乗り継ぎながらホステリング(ユースホステルを使った貧乏旅行)をしていたころ、いつもリュックサックに突っ込んであった文庫本のひとつが、宮沢賢治の詩集だった。
妹・トシの死をうたった一連の詩「松の針」「永訣の朝」「青森挽歌」「オホーツク挽歌」が特に好きで、ページの縁がぼろぼろになるまで読み込んだ。その詩集には、最愛の妹を失った悲しみを乗り越えようとする賢治の心の葛藤が、等間隔で並んだ9ポイントの活字で表現されていた。それが彼の「詩」なのだと、それまでずっと思っていた。
しかし、花巻市の宮沢賢治記念館で私が目にしたのは、まったく異質な「永訣の朝」だ。その肉筆原稿には、書いては直し、消しては書き加えられた言葉たちが、茶色く変色した原稿用紙の上で所狭しと躍っていた。
何度も書き加えられた言葉の堆積が、彼の苦悩のプロセスを静かに語っている。そのインクの軌跡をじっと見つめると、ペンを握る彼の太い指が、ごつごつした彼の手が、見えてくる。原稿用紙を引っかくペン使いが聞こえてくる。
それは、活字で印刷された「永訣の朝」からは一度も感じとることのできなかったリアルな感動だ。変色したシミだらけの原稿用紙には、彼の身体の痕跡、そして精神の葛藤のプロセスが塗り込められている。それが私の心を捉え、しばらくガラスケースの前に釘づけとなってしまった。
私は自問した。
これが、文庫本に収録されていた、今まで知っていた、あの「永訣の朝」と本当に同じ作品なのだろうか?
(次ページに続く)

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