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高橋幸治のデジタルカルチャー斜め読み 第7回

前編 ~作家とリスナー、コンサートとレコードの関係~

なぜ音楽は無料が当たり前になってしまったのか

2015年12月29日 09時00分更新

文● 高橋幸治、編集●ASCII.jp

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デジタル技術による音楽モジュール化で、主権は作家からユーザーに

 いずれにしても、“音楽をお金を払って聴取する”という一見不動とも思える基本原理が、どうやら根幹から動揺しているらしいというのが最も注目すべき点である。音楽は聴く、しかし、購入はしない……。まさに筆者自身がこれであり、大学で接する学生たちも同様だ。

 今回と次回は「なぜこれほどまでに音楽は無料が当たり前になってしまったのか?」について考えてみたいと思う。「これだけレンタルもあるわけだから」とか「だって、YouTubeで十分だからさ」とか、巷間よく指摘される至極ごもっともなことではなく、「音楽と私たちとの関係の変化」についてちょっと変わった角度から掘り下げてみたい。

 おそらく音楽が売れなくなった理由は無数にあって、それをこの連載ですべて指摘/検証するわけにはいかない。したがって筆者が考えるいくつかの糸口だけを扱うことになるが、ひとまず考察の俎上にのせたいと思っているのは次のことだ。

①「音楽の生産/消費のされ方は時代によって劇的に変化している」ということ。

②「テクノロジー(特に録音技術)によって音楽はときに可能性を開かれ、ときに可能性を閉ざされてきた」ということ。

③「音楽に対する報酬という観念自体が実はかなりいい加減なものである」。つまり「音楽ビジネスという商業活動はまことに危うい経済基盤の上に成り立っている」ということ。

 最終的な結論などは出るはずもないが、まずは上記の問題を端緒に論を進めたい。

 とりあえず、本連載のタイトルである「デジタルカルチャー」という視点から比較的わかりやすい論点を提示すると、アナログレコードからCD、CDから楽曲ごとのダウンロード販売に移行する際、楽曲制作者の世界観を至上の価値としてリスペクトする感覚は徐々に希薄になり、現在ではほぼ解体されたと言っていいだろう。

 アナログレコードは基本的に「アルバム」という全体性が想定されている。ときにはA面/B面それぞれの世界観までもが設定され、30×30cmを超えるLPのジャケットはそのアルバム内の楽曲群が表現するイメージの「重要な視覚的表徴」として機能していた。

 LPサイズのアナログレコードを聴くということは、両面合わせて約1時間、そのアーティストが創出した美的な音響空間に身を委ねる行為だったと言える。


2014年8月にオープンした、中古のアナログレコードを中心に扱う「HMV record shop 渋谷」。こうしたショップが出てくることもアナログレコードの健在ぶりを伝えることの一環になっているのだろう

 それがCDになった時点でA面とB面という概念は消失し、さらにはデジタル音源ゆえの曲の先送り/後戻りの簡便さ、イコライザーをはじめとするプレーヤーの機能の多様化によって、ユーザーによる楽曲制作者の意図の改変はアナログ時代よりも容易になった。音楽が楽曲ごとにバラ売りされる時代に突入して以降は、もはやLP時代のような作家性に対する過度な尊敬はない。

 音楽におけるアナログメディアの基本原理は「パッケージ化」であり、それに対し、デジタルメディアがもたらした基本原理は「モジュール化」である。

 これを「アーティストが作り出す世界観の悲しむべき崩壊」と見るか、「個々の楽曲がアルバムのくびきから解放されて自由を獲得した」と見るか、それは人それぞれだろう。

 しかしデジタルカルチャーの多くは、誰かがパッケージ化したものをユーザーがモジュール化し、二次創作的に再編制/再構築することによって生まれる。

 現在では音楽はもはや楽曲という単位からさらにモジュール化し、フレーズが誰かの創作のパーツになることも珍しくない。そういう意味では、音楽はデジタル化以前からシングルレコードという様態やサンプリングという手法などによって、自らの内にモジュール化への胎動を育んできた言える。ともかく、ここに最初の「作家や作品に対する相応の対価」という感覚の喪失が予兆されているのだろう。

 もはや、音楽聴取の主権は完全にリスナーが掌握している。

(次ページでは、「「適当に聴き流す」から芸術に昇華されたコンサート 」)

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