空挺団の歴史
別室では、戦前からの空挺部隊の業績が展示されている。もちろん旧陸軍の空挺部隊と、戦後発足の自衛隊の間には直接組織として関係は無いが、同じ空挺部隊として先達の業績を長く後世に語り伝えるのが目的なのだろう。
ちなみに旧軍における空挺部隊は、陸軍のみならず海軍でも運用されていた。当時、陸海軍とも空挺部隊を運用していたのは日本だけであり、同一の目的を持つ組織を陸海軍でそれぞれ保有するというなんとも無駄な状況だった。
パレンバン降下作戦
陸軍の空挺部隊は昭和15年(1940年)に創設され、来るべき開戦時の南方侵攻作戦でオランダ領東インド、すなわち現在のインドネシア共和国の内陸部に存在する精油所を可能な限り無傷で確保することが主な目的とされていた。これがパレンバン降下作戦で、開戦後の昭和17年(1942年)2月14日、マレー半島の飛行場から長駆発進した陸軍の輸送機より降下、ほぼ1日の戦闘で精油所の施設を少ない損害で確保することに成功した。
パレンバンの位置
この空挺作戦の成功は、当時の大本営や各種媒体で「空の神兵」と喧伝され、これにちなんで作曲された軍歌は大いにヒットしたという。ちなみに陸上自衛隊の富士総合火力演習などでこの「空の神兵」が演奏されることがある。
義号作戦
陸軍の空挺部隊の栄光はこれが頂点で、その後は戦局の悪化や防衛戦主体の戦闘で活躍の場が狭まっていった。昭和19年(1944年)7月のサイパン島陥落による本土空襲の危機に、空挺部隊により同地の連合軍飛行場を攻撃し、B29戦略爆撃機の破壊を目的とする作戦が立案された。
しかし準備に手間取るうちに翌昭和20年(1945年)3月硫黄島に連合軍が上陸、攻撃目標をサイパン島から硫黄島に切り替えることが検討されるも3月17日に硫黄島は玉砕、最終的な攻撃目標はやはり連合軍が上陸した沖縄本島の飛行場とされることになる。これが「義号作戦」、いわゆる「義烈空挺隊」と呼ばれる帰還を前提としない殴り込み作戦だ。
同年5月24日熊本健軍飛行場を12機が発進し一路沖縄を目指したが、途中故障等による脱落が相次ぎ、結果、7機が北飛行場(現在の読谷飛行場)、中飛行場(同じく嘉手納飛行場)に突入、1機が北飛行場に強行着陸し、連合軍航空機や燃料を攻撃したという。なお、この作戦で部隊は壊滅している。これをもって第二次世界大戦における旧軍の空挺部隊の組織的な作戦は終了することになる。
中飛行場(読谷)の位置
余談だが筆者の父は、当時陸軍の通信兵として福岡の第六航空軍で通信任務に従事しており、菊水作戦などに関する暗号電を打っていたようだ。もっとも本人に聞いても、一介の通信兵には電文の内容は分かる訳もなく、ひたすら福岡から九州各地、そして沖縄の部隊に通信を送っていたとのこと。ちなみに4月の菊水一号作戦(戦艦大和による沖縄特攻も含む)の際にはかなり通信量が増大したのは覚えている、とのことだ。ちなみに父はその後決号作戦(本土決戦)準備の為に宮崎県へ移動し、そこで上陸してくる連合軍戦車への体当たり訓練を受けている最中に終戦となった。仮に8月で戦争が終結せず、10月発動予定のオリンピック作戦(連合軍による南部九州侵攻作戦)が発動されていたら、とても生きては居られなかっただろう、とは本人の弁である。
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