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高橋幸治のデジタルカルチャー斜め読み 第8回

後編 ~レコードの功罪と音楽にまつわるあいまいな値段~

なぜ音楽は売れない――その本質と「お布施」による打開策

2016年01月05日 09時00分更新

文● 高橋幸治、編集●ASCII.jp

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販売されているのはあくまでも音楽の「ほんの一部」に過ぎない

 CDというモノを購入するのではなく、ミュージシャンの活動支援をよりフレキシブルな価格体系で詳細に設定する以外ないのではないか。現状、そうした支援活動は音楽以外のグッズを購入といった行為で代替的に実現されているのだろうが、今後はさらにモノを離れたサポートシステムが必要になってくるような気がしてならない。

 2回に渡って長々と音楽について書いてきたが、ひとまず結論めいたことを最後に述べておくとすれば、レコード産業確立期から営々と築き上げてきた生産/消費モデルが、もはや現状の私たちと音楽との関係においては円滑に機能しなくなっているということに尽きるのではないだろうか?

 そして同時に「音楽とはそもそも何なのか?」「音楽ははたして誰のものなのか?」「音楽はどうして必要とされるのか?」といった根本的な疑問を、私たちはもう一度じっくり考え直してみる必要があるように思う。

 「風狂歌人」と呼ばれた沖縄民謡の大御所・嘉手苅 林昌氏は彼の唄を聴きに来た聴衆に向かって「歌を聴きに来るバカがいる。歌は歌うものであって聴くものじゃない」と言い放ったというが、これが事実なのか伝説なのかはともかくとして、ある意味、音楽というものの本質を言い当てている。

沖縄・那覇の公設市場で歌う沖縄民謡の大スター嘉手苅 林昌氏。左はやはり沖縄民謡の名人として名高い大城 美佐子氏、右は次男の嘉手苅 林次氏。踊っているのは映画「パラダイスビュー」「ウンタマギルー」の監督である高嶺 剛氏。素晴らしい唄と演奏……、音楽というものはまさにこうしたものなのだろう……

 音楽産業が廃れたところで音楽を聴取する機会はいくらでもあるし、値段の付いていない音楽でも心を揺さぶられる楽曲はいくらでもある。しかも音楽は聴取されるだけのものではなく、本来、人々の生活の中から生まれ、当人たちによって奏でられたり歌われたりするものだ。

 音楽ビジネスの凋落は「かつてのように音楽としっかり向き合う人たちが少なくなってしまった」「インターネットのせいで音楽が無断でコピーされてるようになってしまった」ということではなく、「販売されている音楽はあくまでも音楽のほんの一部に過ぎない」ということがインターネットによって改めて露見したというべきなのではないだろうか?



著者紹介――高橋 幸治(たかはし こうじ)

 編集者。日本大学芸術学部文芸学科卒業後、1992年、電通入社。CMプランナー/コピーライターとして活動したのち、1995年、アスキー入社。2001年から2007年まで「MacPower」編集長。2008年、独立。以降、「編集=情報デザイン」をコンセプトに編集長/クリエイティブディレクター/メディアプロデューサーとして企業のメディア戦略などを数多く手がける。「エディターシップの可能性」を探求するミーティングメディア「Editors’ Lounge」主宰。本業のかたわら日本大学芸術学部文芸学科、横浜美術大学美術学部にて非常勤講師もつとめる。

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