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高橋幸治のデジタルカルチャー斜め読み 第4回

点いている状態が重要

テレビ離れで見えたテレビ最大の魅力は「観る」ではない

2015年12月08日 09時00分更新

文● 高橋幸治、編集●ASCII.jp

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重要なのは「観ている」ではなく「点いている」ということ

 マーシャル・マクルーハンの提出した有名な概念のうちのひとつに「熱いメディアと冷たいメディア」というものがある。少々まどろっこしいかもしれないが、該当個所を一段落まるごと以下に引用する。

 “ラジオのような「熱い」(hot)メディアと電話のような「冷たい」(cool)メディア、映画のような熱いメディアとテレビのような冷たいメディア、これを区別する基本原理がある。熱いメディアとは単一の感覚を「高精細度」(high definition)で拡張するメディアのことである。「高精細度」とはデータを十分に満たされた状態のことだ。写真は視覚的に「高精細度」である。漫画が「低精細度」(low definition)なのは、視覚情報があまり与えられていないからだ。電話が冷たいメディア、すなわち「低精細度」のメディアの一つであるのは、耳に与えられる情報量が乏しいからだ。さらに、話されることばが「低精細度」の冷たいメディアであるのは、与えられる情報量が少なく、聞き手がたくさん補わなければならないからだ。一方、熱いメディアは受容者によって補充ないし補完されるところがあまりない。したがって、熱いメディアは受容者による参与性が低く、冷たいメディアは参与性あるいは補完性が高い。だからこそ、当然のことであるが、ラジオはたとえば電話のような冷たいメディアと違った効果を利用者に与える。”

Image from Amazon.co.jp
あらゆるメディアを考える上でもはや聖典とも言えるM・マクルーハンの「メディア論」。今回取り上げた「熱いメディアと冷たいメディア」に関しても読者によってさまざまな解釈が存在し、あたかもマクルーハンの書物自体が「高い参与性」を読者にうながす「冷たいメディア」として機能しているようだ

 ここで重要なのは「高精細度/低精細度」「参与性が高い/参与性が低い」ということなのだが、マクルーハンはテレビを「低精細度」で「参与性が高い」メディアであると述べている。

 「メディア論」が米国で刊行されたのは1964年であり、当然のことながら当時のテレビは小型かつ白黒である。そうした理由から「いまのテレビは高精細度なのだから、テレビは熱いメディアになったのではないか?」という意見もあるだろう。

 それはそれで一理あるとは思うのだが、一方で、いくらハードウェアとしての解像度が上がったところで、私たちはテレビを四六時中食い入るように凝視しているかというと決してそんなことはない。「いやいや、好きな番組は真剣に観ているよ」という人もいるかもしれないけれども、その態度が何時間も持続することはない。それはあくまでも特定の「コンテンツ」に関する感想だ。

 マクルーハンはテレビで放映されるコンテンツではなく、テレビという“メディア”について論じている。つまり、コンテンツがニュース番組であれ音楽番組であれ、バラエティー番組であれ、テレビというものはかなりダラダラとした気分と姿勢で、こちらが適当に解釈し、相当いい加減に視聴しているのではないか? そういう意味ではテレビの情報の密度は実は低く、こちらの都合でチャンネルを頻繁に変更したり(“コンテンツ”を自由に選択可能)、テレビの前からちょくちょく離脱したりまた復帰したり(視聴態度も自由に選択可能)、ユーザーの参与性がかなり高いメディアという解釈も成り立つ。

 そう考えると、テレビのテレビたる最大の特性とは、「点けっぱなしの状態」で、あたかも部屋の照明器具のように存在しているということなのではないだろうか?

(次ページでは「テレビの安心感はどこから来るのか」)

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