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高橋幸治のデジタルカルチャー斜め読み 第4回

点いている状態が重要

テレビ離れで見えたテレビ最大の魅力は「観る」ではない

2015年12月08日 09時00分更新

文● 高橋幸治、編集●ASCII.jp

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「発信」の強迫観念から解放してくれるテレビの安心感

 私たちは現在好むと好まざるとに関わらず、常に“発信”を迫られる情報環境の中に生きている。「スマホ依存症」というのはある意味で「情報を受信せずにはいられない」という状態であると同時に、「情報を発信せずにはいられない」という状態でもある。

 よく言われることだけれども、現代の人々はかつてのような「誰かに見られているかもしれない恐怖」よりも、「誰にも見られていないかもしれない恐怖」に苛まれている。

 テレビはこの“発信”に対する強迫観念的なストレス状態をやさしくなだめてくれる、「思うに任せてただ好きなように観ていればいい」稀有なオールドメディアなのである。 

 つまりテレビにおける“参与性が高い”ということは、かならずしもコンテンツに対する集中度が高いということを意味しておらず、観ていようが観ていまいがこちらの勝手という「終始開かれた参加状態」を意味している。

 だから、「観てないならテレビ消しなさい!」という世界中のお母さんたちの名台詞があるが、これはまさにテレビの本質を言い当てている。テレビは観ていることよりも“点いている”ことに意味があり、その情報を漫画を読みながら聴覚だけで受容したり、お菓子を食べながら断続的に視線を振り向けたり、観るともなしに観ているというあやふやな態度を許容してくれるメディアなのだ。

 時代の気分として合理や効率が幅を利かせ、いかに無駄や不毛を排除するかに関心が集まりつつある。

 「好きな番組だけを好きな時間に好きなメディア」でというコンテンツのストリーミング配信が台頭する裏で、「何となく点いている」というテレビの魅力と本質が再認識/再評価されるような気がしてならない。

 テレビは発信しなくてもいいメディアである。従って、時代の潮流に迎合するかのようにテレビに双方向性を付加しようとする試みは筆者としてはどうなのかと思う。マクルーハンがテレビを「低精細度で参与性が高い冷たいメディア」と定義した真相を、私たちはいま一度熟考する必要がある。

今年は秋に北米最大の動画ストリーミングサービス「Netflix」、そしてAmazonの「プライム・ビデオ」が上陸し、先行してサービスインしていた「Hulu」も含め、テレビ(=メディア)から番組(=コンテンツ)が分離し始めた一年でもあった。こうした潮流が加速していく中、今後、メディアとしてのテレビはどう存続していくのだろうか?



著者紹介――高橋 幸治(たかはし こうじ)

 編集者。日本大学芸術学部文芸学科卒業後、1992年、電通入社。CMプランナー/コピーライターとして活動したのち、1995年、アスキー入社。2001年から2007年まで「MacPower」編集長。2008年、独立。以降、「編集=情報デザイン」をコンセプトに編集長/クリエイティブディレクター/メディアプロデューサーとして企業のメディア戦略などを数多く手がける。「エディターシップの可能性」を探求するミーティングメディア「Editors’ Lounge」主宰。本業のかたわら日本大学芸術学部文芸学科、横浜美術大学美術学部にて非常勤講師もつとめる。

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