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塩澤一洋の“Creating Reed, Creative Mass.──大公開時代の羅針盤” 第15回

塩澤一洋の“Creating Reed, Creative Mass.──大公開時代の羅針盤”

音楽・写楽・楽校・楽問

2008年08月31日 15時00分更新

文● 塩澤一洋 イラスト●たかぎ*のぶこ

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「学校」は「楽校」、「学問」は「楽問」


 一方、鑑賞と創作のサイクルを制度的に下支えしているのが著作権法だ。著作権法はその究極の目的を、「文化の発展」に据えている(第一条)。すなわち、人々の創作を尊重し、多様な作品が生み出されることによって、豊かな文化が育まれることを願う法律なのだ。従って鑑賞と創作のサイクルを鈍らせるような改正は、著作権法の望むところではない。

 たとえば著作権の保護期間を延長しすぎると、現在および未来の人々が過去の作品を鑑賞しにくくなる。鑑賞しにくければ、その作品を鑑賞したことからインスピレーションを受けた新たな作品が創作されにくくなる。鑑賞に基づく創作、という鑑賞と創作のサイクルが鈍るのだ。

 過去に創作した人の作品を保護しすぎるあまり、現在、そして未来の人々の創作性が過度に減殺されることになれば、それは著作権法の望むところではない。著作権法は、真に創造的な社会であり続けるために、鑑賞と創作のサイクルを適正に保ち続ける制度であるべきだ。

 しかし、制度の整備だけではサイクルは回らない。法制度はあくまでもインフラであって、それ自体がサイクルを回す動力にはなり得ないからである。

 日本の私法秩序は「私的自治」あるいは「意思自治」を基礎に組み立てられている。人は自らの意思のみに基づいて行動する、という大前提を置いているのだ。法律が国民に対して「契約しろ」とか「結婚しろ」といった指図や命令をすることはあってはならないのである。

 当然、著作権法も、「創作しろ」と命じることはない。創作した人に対して権利を与えることなどにより、サイクルを形成するための仕組みは提供できるが、それを超えて、人々に創作をうながし、サイクルを回す力になろうとすべきではない。著作権法も私法秩序の一要素である限り、抑制的であることが要請されるのだ。創作するかしないかは個人の自由なのである。


(次ページに続く)

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