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科学技術振興機構の広報誌「JSTnews」 第1回

【JSTnews5月号掲載】特集1

全国的に注目を集める水インフラ!安全安心な水循環系の実現を目指す研究現場の最前線

2025年05月21日 07時00分更新

文● 本橋恵一 写真●後藤利江

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 私たちの暮らしにはきれいな水が不可欠だ。日本は豊かな水資源に恵まれているが、こうした水を将来にわたって利用し続けるためには現状の水インフラでは十分ではない。信州大学工学部の田中宏明特任教授と東京大学大学院工学系研究科附属水環境工学研究センターの北島正章特任教授らは、水に含まれる微量の病原体や化学物質などの汚染物を管理する新たなインフラの概念を実証し、健康リスクを低減する社会の実現を目指している。

更新期迎えた日本の上下水道
水処理技術向上が喫緊の課題

 日本の上下水道インフラは、20世紀の高度経済成長期に整備が進んだ。水道の蛇口をひねればきれいな水を容易に得ることができ、排水の多くは下水処理場で適切に処理されて水環境に戻っていく。しかし、多くの水インフラが建設されて半世紀以上が経過し、日本の上下水道は更新期を迎えている。

 例えば、汚水と雨水を1つの下水道管で流す合流式の下水道では、大雨で水量が増加すると下水処理場で全ての下水を処理しきれないことがある。処理しきれない雨天時、下水は下水道から放流され、水環境が汚染されてしまう。近年では、分解しにくい化学物質である有機フッ素化合物(PFAS)による水道水汚染も全国で問題となっている。

 2025年1月には埼玉県八潮市で下水道管に起因する陥没事故が発生した。事故から1カ月以上たっても、下流の下水道管の水位を下げるため、中継ポンプ場から下水を固形塩素で消毒するだけで放流する状況だった。他のインフラ同様、老朽化が進んだ上下水道では、災害による被害も起こりやすい。信州大学の田中宏明特任教授らは水インフラの更新に備え、安全性を向上する水処理技術の確立に取り組んでいる。

水インフラのソフト・ハード
両面からのアプローチが重要

 日本では有機物や窒素・リンの環境基準を満たすように流域ごとに下水道計画が立てられ、下水道の整備と高度処理の導入が進められた。田中さんは「これまでの環境基準と排水基準さえ満たしていれば安全なのかというと、そうではありません。むしろより安全安心な基準を新たに作っていかないと水利用には不都合が生じることもあります。水道水は浄水されますが、水浴や農水産などの水利用では、環境水がそのまま使われる点に注意が必要です」と話す。

 田中さんが研究開発代表者を務めるプロジェクトが目標として掲げるのは「人や社会と環境の間で循環する水を総合的に捉え、人や社会の活動に伴い排出される水の安全を確保し、日常的にさまざまに利用する際に、水に関わる健康リスクから、子どもから高齢者までの誰もが守られる社会」の実現である。上下水道にとどまらず、循環する水の安全レベルをさらに高次へと引き上げるため、健康リスクの低減や制御を掲げる。

 田中さんは「今の日本には水の安全神話があります。しかし、問題が起こってからでは遅く、危険性を事前に明らかにする必要があります」と指摘する。水の安全レベルを引き上げる環境管理といったソフト面だけではなく、上下水道などの水インフラ施設のハード面の改善も目指す。安全安心な水循環の実現には、ソフト・ハードの両面からアプローチすることが重要だ。

「重要管理点」の明確化から
効果的なコントロールまで

 このプロジェクトの共同研究機関は産官学の18機関にわたり、研究者の総数は60人におよぶ、大規模な体制となっている(図1)。プロジェクトでは、2つの概念実証(Proof of Concept、POC)を設定している(図2)。POC1では、京都大学、高知大学などのグループが、琵琶湖流域でウイルスなどの健康リスク因子の発生源となる「重要管理点」からの健康リスク因子の排出実態を調べ、水環境の汚染実態と流出経路を明らかにすることを目指す(図3)。これまでの研究で、薬剤耐性大腸菌などの排出実態が定性的にわかってきており、現在は定量化に着手している段階だ。

 POC2は、革新的な水処理技術を組み合わせた上下水の処理によるリスクコントロールだ。具体的には、高規格水処理システムを導入して重要管理点で制御することで、水循環系の健康リスクを許容可能なレベルに管理し、全国のさまざまな水環境にも適用できることを概念実証する。また、リスクコントロールの考え方などを方式化し、新たな検出・水処理技術を開発して、導入コストに見合う公衆衛生改善の便益があることを示す。「日本はもちろん、世界での利用という視点からも今回の技術開発が貢献できると思います」と田中さんは意気込みを語る。

 POC2では、健康リスクをコントロールする手法として真空紫外線技術や革新的オゾン技術、ナノ・マイクロバブル技術による高規格水処理の開発を目的とする。三菱電機、工学院大学、摂南大学の各グループは、オゾン発生器の後段にオゾン吸着剤を利用して酸素ガスを分離、回収・再利用するとともに、必要時に貯蔵濃縮したオゾンを脱着させて超高濃度オゾンガスの製造を目指す。また、水処理に利用可能な革新的オゾン水処理技術を開発し、従来技術の半分のコストとする目標を掲げている(図4)。

図2  この課題で実施している2つのPOC POC1では、重要管理点の設定手法開発や下水中のウイルス検出など、リスク管理・評価を行っている。POC2では、水処理技術の組み合わせによる上下水道の水処理によるリスクコントロールが目標だ。

図3 重要管理点の明確化とリスク実態の解明 ウイルスや薬剤耐性菌、耐性遺伝子などの健康リスク因子の発生源となる「重要管理点」の候補として、下水処理場や病院、畜産施設などからの排出負荷を調査。雨天時も考慮して、水環境汚染実態と流出経路を明らかにする。

図4 革新的オゾン水処理技術 ①オゾン濃縮/貯蔵システムにより、オゾン発生器の小容量化と原料酸素ガスの費用低減 ②革新的オゾン発生電極により、製造/維持管理費用の低減 ③懸濁物質除去技術により、必要オゾン量の低減 ④高度オゾン注入制御により、オゾン注入量の最適化 ⑤高速物質移動装置により、反応器の小型化と処理時間の短縮を目指す。

 北海道大学のグループは、従来の浄水処理では除去できない1,4-ジオキサンや有機フッ素化合物をマイクロバブルと真空紫外線を組み合わせて直接分解する技術を、浄水場に導入可能なコストになるよう開発中である。ナノバブルを利用して洗浄することで、処理水質を大幅に改善できる膜分離活性汚泥法の曝気風量を半減させる研究も実施中だ。これらの処理技術を開発し、実用的なコストで許容可能な健康リスクレベルに制御できる革新的な水処理技術を上下水道に組み込めるように研究開発を進めている。

 今回のプロジェクトのように社会実装を前提とした技術の研究開発では、費用対効果が非常に重要となる。いかに画期的な技術であっても、費用がかかりすぎては、浄水場や下水処理場などに実装してもらえない。POC2では、ニュージェックが社会実装の検討を進めており、リスク削減による経済効果を定量化し、どこまでコストを上げても社会的意味があるかを示す社会実装のための研究も大切だ。

新型コロナの感染が拡大
下水疫学への注目高まる

 POC1には、水循環におけるリスク検出に加えて「下水疫学」の社会実装による感染症リスクに強い社会の構築という、もう1つのサブテーマがある。下水の中には、人が排出した細菌やウイルスなどの病原体も含まれており、下水を解析することで感染症の流行を予測できる。これが下水疫学調査だ。病原体などが下水処理場に集積するという下水道インフラの特性を活用しており、地域の感染動向を効率良く把握できるため、臨床検査を補完する疫学調査として注目されている(図5)。

 今回の研究プロジェクトで、下水疫学の社会実装を担当するのは高知大学の井原賢教授と東京大学の北島正章特任教授だ。特に北島さんは、以前から下水関連の研究に携わっていて、それが下水疫学の先駆的な研究につながった。その成果の1つとして、2004年頃に起こったコイの大量死の原因となったコイヘルペスウイルスの検出がある。このウイルスは、脂質と糖たんぱく質の被膜を持つ「エンベロープウイルス」の一種であり、北島さんの卒業研究は、多摩川の河川水におけるコイへルペスウイルスのDNAの検出を通じたアウトブレークの早期検知の可能性を示すものであった。

 それまでの水中ウイルス研究分野の主な対象は、ノロウイルスなどの被膜を持たない「ノンエンベロープウイルス」であったが、北島さんは当時世界的にも珍しかった水中のエンベロープウイルスを研究の対象にした。この研究経験は、 2020年に新型コロナウイルスを下水から検出する際に生きた。新型コロナウイルスは、コイヘルペスウイルスと同様に、被膜を持つエンベロープウイルスのため、固形物にくっつきやすい傾向がある。そのため、固形物を取り除いた水ではなく、逆に固形物からウイルスのRNAを抽出することで検出感度が向上することをいち早く見いだした。

 下水からの新型コロナウイルスの検出技術の開発は、日本では海外諸国に比べて感染者が相対的に少ないこともあってなかなか進まなかったが、2020年に塩野義製薬と共同研究を開始したことで、研究が一気に加速した。下水疫学のスペシャリストである北島さんと、生命科学や分子生物学に詳しい塩野義製薬が互いを補完し合った結果だ。一般的なウイルスの検査では、 DNAを増幅させて極微量の核酸を検出するPCR検査が使われるが、北島さんらは、PCRの前に固形物から効率良くRNAを抽出するとともに前増幅により感度を上げる「EPISENS-S法」を開発した。

 当時、北島さんは北海道大学に所属していたので、この下水中の新型コロナウイルスを高感度に検出する技術は早速、札幌市などの自治体の下水疫学調査に使われた。2021年に開催された東京オリンピック・パラリンピックでは、関係各所との交渉の結果、選手村での下水疫学調査が実現した。選手村の下水を毎日分析して新型コロナウイルスの有無を調べ、その結果は選手村の感染状況の判断材料の1つとして活用されるなど、感染対策に貢献した。「東京オリンピック・パリンピックの時期は毎日が忙しく、競技を見た記憶がありません」と北島さんは笑いながら話す。

図5 下水疫学調査 感染症を発症した有症者だけでなく、感染したにもかかわらず症状を発症していない不顕性感染者の排泄物や分泌物に含まれる病原体も検査できるため、地域の感染者数を予測や変異株の侵入を早期に把握できる。

全国での社会実装が目標
産官学連携や国際展開も

 このプロジェクトでは、さまざまな地域での健康リスク実態を解明するとともに、重要管理点を含めた水循環系全体におけるリスク実態を迅速に把握するために、健康リスク評価システムの開発と自動化に取り組んでいる。また、水処理技術の改良により、排水中の健康リスク物質の低減と、水処理システムの高性能化・低コスト化にも取り組んでいる。一連の成果は、安全安心な水インフラが整備された水循環系の構築や、誰もが健全な水資源を享受できる未来社会の実現に貢献するだろう。

 プロジェクトは2026年度に終了するが、北島さんの研究グループの次なる目標は、下水疫学調査を全国レベルで社会実装することだ。東京オリンピック・パラリンピックの後も、実証調査データの蓄積や自治体への技術移転を進めており、産官学の連携の推進や、国際展開に関する研究も手がけている。北島さんは「下水疫学調査を実施して公衆衛生上の有益なデータを提供することで、さまざまな新しい価値を生み出せるものになります」と語る。

 欧米では、新型コロナウイルス感染症パンデミックの初期から国レベルでの下水疫学調査の社会実装を推進。米国では疾病予防管理センターが主導して1700カ所以上、EU加盟国では合計1300カ所の下水処理場で下水疫学調査を実施している。実装面では後れを取った格好の日本だが「技術的には日本の方が最先端の研究開発を進めており、社会実装もそれにふさわしいものにしていきたいと思っています」と北島さんは自信を示す。

 北島さんには、もう1つ目標がある。それは、このプロジェクトを若い世代に魅力的に感じてもらうものにすることだ。そのため、安全な水は持続可能な開発目標(SDGs)の目標6に位置付けられており、将来を見据えた重要な研究領域であることを学生にアピールしている。一見すると地味に思える研究テーマであっても、上下水道は私たちの生活を支える重要なインフラである。自分の研究が人々の健康を支えていくものになるとすれば、若い人にとって、やりがいのある分野なのではないだろうか。

※ナノバブルはナノメートルオーダーの直径の微細気泡に対して使われることのある呼称で、直径1マイクロ(マイクロは100万分の1)メートル未満の気泡は国際標準化機構(ISO)および日本産業規格(JIS)ではウルトラファインバブルと定義されています。

これまで日本が守ってきた水の“安全神話”を壊してはいけませんが、安全だと思い込んでいるのも違います。今後、問題が起こってから行動するのではなく、何かが起こってしまう前にリスクを把握していく。これをしっかりと考えていかなくてはなりません。

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