【JSTnews5月号掲載】特集1
72時間前の洪水予測で「洪水を災害にさせない」社会の実現へ
2026年05月20日 12時00分更新
地球温暖化の影響で、世界各地で豪雨が発生し、洪水も頻繁に起こっている。こうした気候変動による被害を防ぐためには、堤防の整備や増強といったハード面の対策に加えて、洪水を予測し、ダムの放流や水門の制御、住民の早期避難といったソフト面の対策も重要だ。現在、洪水予報は早くても発生6時間前の発表となるが、東京大学生産技術研究所の芳村圭教授は、衛星観測とモデルシミュレーションの融合により、72時間前の予測に挑戦している。洪水に関する情報伝達と防災対応を最適化することで、被害を最小限に抑える社会の実現を目指す。取材・撮影等協力:東京大学柏キャンパス
世界の被害額は年間約4兆円
「洪水を災害にさせない」社会へ
近年、地球温暖化に伴って超大型台風や極端な豪雨などの気候変動が起き、被害規模が甚大になっている。2000~19年における洪水被害の報告数は1980~99年の2.34倍に達し、世界で毎年平均約4兆円の被害が出ている(図1)。日本では19年の台風19号の被害額が1兆8000億円に上った。洪水は今後も増えると懸念され、被害を最小限に抑えることは喫緊の社会課題となっている。
以前は、ダムや堤防といった治水施設の整備・増強が対策の中心となっていた。だが、こういった「洪水を起こさない」対策だけでは被害の拡大を防げなくなっている。「問題は、100年に1度の頻度でしか起こらないと想定されていた規模の洪水が、しばしば起こるようになってしまったことです。そこで、私たちの研究チームでは発想を転換し『洪水を災害にさせない』社会の実現を目指しています」と、東京大学の芳村圭教授は語る。
洪水の被害を最小限にするには事前の対策が重要であり、精度の高い長期間の予測が必要となる。しかし、現状の洪水予報では、発表後に避難などを開始しても対応が間に合わず、甚大な被害が発生してしまう事象が多発している。また、情報の精度が不十分なため、洪水が起きそうな場所をピンポイントで特定し、集中的に対策を打つことが難しい。
そこで、芳村さんのプロジェクトでは、衛星観測とモデルシミュレーションを組み合わせ、洪水の発生を72時間前に高精度・高解像度で予測することで、誰もが余裕を持って効果的な行動ができる社会の実現を目指す(図2)。洪水を予測するだけでなく、情報の伝え方も研究し、各人の置かれた状況や必要に応じた予測情報を提供することで被害の拡大を防ぐと同時に、避難計画や防災施設の設置など国や自治体の防災対策の策定にも寄与したい考えだ。
図1 1980~99年と2000~19年における自然災害の種類ごとの発生報告数の比較。UNDRR & CRED(2020). The human cost of disasters: An overview of the last 20 years(2000–2019)
全世界対象に予測情報を提供
人工衛星活用し的中率50%に
芳村さんの専門分野は、気候システムと水循環だ。地球全体の大気・海洋・陸面・雪氷圏の状態とそれらの相互作用を、力学・熱力学・放射などの物理法則に基づいて数値的に表現した気候モデルを開発し、シミュレーションによって温暖化による影響などを研究している。これまでに、自然環境と同様に、通常の水に質量数が大きな水の同位体が混ざった気候モデルを作成するなどして、地球上の水循環の精度を改善し、気候変動の詳細なメカニズムを調べてきた。
芳村さんのプロジェクトでは、3つのチームに分かれて研究を進めている(図3)。「洪水予測技術開発チーム」は、一般的な河川沿いでの水位計のデータだけでなく、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の人工衛星からの浸水域・水位の観測情報、さらには住民によるSNS情報も利用。人工知能(AI)による降水予測の補正技術、地下水挙動やダム操作・堤防に関する情報・データ、確率的な予測機能も組み込んだ最先端のシミュレーターにより、全世界を対象に72時間まで先の洪水予測情報を提供することを目指す。
芳村さんはすでに、世界の降水データや河川流量、水蒸気といったデータを集めてシミュレーションする仮想の地球「Today's Earth」をJAXAと共同開発し、運用している。このシステムでは、衛星観測をはじめとする気象データに基づいて、河川や地下水などの陸地と、水蒸気や降水といった大気との間での水とエネルギーのやり取りを計算し、地表面におけるさまざまな変数を出力。計算された総流出量に基づき、氾濫原(はんらんげん)を考慮して水力学的計算を実施する(図4)。
水力学的計算では、河川を長方形水路、氾濫原をそこからの斜面でそれぞれ表現し、各地点において数値計算をすることで、流量や氾濫面積割合といった河川にまつわる物理量を導く。Today's Earthの精度を向上させることで、より長時間の洪水予測に使えるシステムに発展させる考えだ。
芳村さんが研究を加速させる契機となったのは、2015年9月に発生した関東・東北豪雨だったという。この時は、茨城県内で鬼怒川が決壊し、洪水で大きな被害が出た。被災地は鬼怒川と小貝川に挟まれた地域。小貝川は千葉県柏市にある芳村さんの研究室近くを流れており、調査対象の川でもあった。身近なところで起きた洪水を見て、「こうした災害が今後も首都圏で発生する可能性が高まっていることを再認識しました」と振り返る。
その後、JAXAの協力によって複数の人工衛星の情報も取り入れることができ、洪水予測の精度は向上していく。「2019年の台風19号の時は142カ所で堤防の決壊が起きました。そのことは39時間前に予測できていました。残念ながら法律上の問題もあり、データを公開できませんでしたが、洪水を予測できることを確認できました」。現在、洪水の的中率(洪水が予測されたうちで実際に洪水が起きた率)は25パーセント程度だが、今後は50パーセントまで引き上げたいとしている。同様に、洪水の捕捉率(実際に起きた洪水のうちで予測されていた率)は90パーセント程度だが、今後は95パーセントまで高めたいとしている。また、そもそも洪水予測ができていないと、自治体や住民がその後の対応をとることができなくなってしまうため、できる限り多くの洪水を予測することも求められる。
図4 Today's Earthの画面例。気象業務法により、一般ユーザーは、各地点における河川流量、水深、浸水深、氾濫面積割合などを現在時刻までしか見ることができないが、研究用途の限定ユーザーは39時間先の予測まで見ることができる。提供:Today's Earth (JAXA) URL:https://www.eorc.jaxa.jp/water/index_j.html
情報の提供方法について検証
行政や住民とワークショップも
今回のプロジェクトでは「洪水予測技術開発チーム」以外にも「情報統融合チーム」、「社会変革チーム」が研究を進めている。「情報統融合チーム」では、京都大学防災研究所の廣井慧准教授がリーダーを務め、どのようにすれば洪水予測の情報が人々に届きやすくなるのかを検討している。いくら正確に洪水を予測できたとしても、適切な形で提供・伝達されなければ、避難指示を行き渡らせる時間が不足し、子どもや高齢者などの逃げ遅れが発生してしまうからだ。
廣井さんらは、災害が起きた場合の社会をコンピューター上に再現する技術を使って、より現実に近い仮想社会を作成。洪水を発生させて、予測を提供するタイミングに応じて情報をどのようにカスタマイズすれば人々に正しく伝わり、適切な行動に移してもらえるのかを検証している。
名古屋大学大学院工学研究科の中村晋一郎准教授がリーダーを務める「社会変革チーム」は、人文・社会科学者や地域の関係者などさまざまな立場のメンバーが協力し合って洪水予測技術の社会への導入に向けたシナリオを構築。想定される倫理的・法的・社会的課題の把握を進める。行政や住民とのワークショップ(図5)やアンケート調査によって、洪水予測技術に対するニーズや、社会実装の可能性や課題を特定したり、自治体と連携して防災計画に盛り込むことを目指す。
図5 長野県・長野市を対象とし、行政職員と研究者が参加するワークショップを長野市内で2回開催した。各回、長野県庁と長野市役所の防災に限らない多様な部署の職員と、洪水予測システム開発者を含む研究者からなる30名程度が参加し、長時間洪水予測が可能になった場合に自分の業務がどのように影響を受けるかについて議論した。
地域ニーズに合う長期予報へ
複数の自治体と研究協定締結
自治体との連携も欠かせない。芳村さんらは2025年3月には愛知県岡崎市と、同年12月に長野県飯山市と研究協定を結んだ。飯山市は、19年の台風19号で大規模な洪水に襲われ、隣接する長野市の新幹線車両基地が水没したことが記憶に新しい。
複数の自治体と連携することの意義について、芳村さんは「長期予報に対するニーズは自治体ごとに異なるからです」と説明する。例えば、岡崎市を流れる矢作川が氾濫した場合、最大で20万人の避難が必要となると想定されている。一方、飯山市は人口に対して面積が広いため、少ない職員でも対応できる避難計画を練る必要がある。
長期間の予測が可能になり、洪水が起きやすい場所が明らかになれば、今後の自治体の役割は避難計画の作成にとどまらなくなる。「大きな川に小さな川が流れ込むような場所で、洪水が起こりやすくなります。1級河川は国の管轄ですが、支流のような2級河川はそうではありません。この支流を自治体がいかにモニタリングするかが重要です」。
一方で、こうした長期間予測について自治体に理解してもらうことは容易ではない。洪水被害は局所的に生じ、一度で氾濫が生じると水位が下がるため、同じ河川の他の場所が安全になりやすいという性質を持つからだ。「広い範囲に危険が迫っている際に出される数多くの予測は、結果的に外れることになりますが、実際に洪水が起きたところでの予測を外すわけにはいきません。対策が遅れたら人命が失われることになるからです。自治体や住民と対話をしながら、理解を深めてもらうことが必要です」と芳村さん。
リテラシー向上のために、岡崎市では2026年度にワークショップを開催することを計画している。洪水予測の情報を他の組織と共有し、自治体職員の行動を変えていくのが狙いだ。自治体の防災担当以外(例えば農業や道路管理、教育関連など)の部署が災害時に何をどのように行うべきなのかを丁寧に整理することで、より効果的な対応を効率よく進めることができるようになる。
法改正で民間予測が可能に
海外への水平展開を目指す
今後、プロジェクトはどのように展開していくのだろうか。まず、現在開発中の長時間洪水予報については、これまで集めたデータを活用し、コンピューター上の仮想空間でリアルに再現する「デジタルツイン」のような形で社会実装し、誰もが安全に避難できるシステム構築が必要だ。現在の降雨状況だけではなく、72時間後の洪水情報も可視化し、誰もがアクセスできるようにすることを志向している。
2023年には気象業務法が改正されて、民間事業者が洪水予測を公表できるようになった。「19年の台風19号では、法的な制約で洪水予測を公表できませんでした。現在でも洪水予測を公表するには事前審査が必要ですが、法制度に風穴が空いたことは大きな一歩だと思っています」と期待をのぞかせる。今後は、芳村さんのチームでも洪水予報業務の許可を取得し、Today's Earthを活用した洪水予測を公表していきたいとしている。
気候変動による洪水は日本だけの問題ではない。2026年にはASEAN諸国を中心とした海外に洪水予測を展開することを目指しつつ、南アフリカ共和国やブータン王国とのプロジェクトも計画しているという。世界気象機関(WMO)でも地球全体の洪水予測に関する委員会が立ち上がっており、芳村さんも参加している。
これに先立って、2026年3月にはToday's Earthをリニューアル。世界全体の陸域の水循環情報について、約10キロメートル格子の解像度で約5日先までの予測情報を、誰でも見ることが可能となった。「『Early Warnings for All』というイニシアチブが国連で実施されています。『すべての人に早期警報システムを』ということです。世界はまだまだ予測が十分ではありません。私たちのシステムによって世界にもっと情報を提供していきたいと思っています」と芳村さんは語る。洪水を災害にさせない社会を実現するための研究は、これからも続いていく。
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