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第2回 山口編

岩国市観光協会の贅沢な「悩み」

観光客増の岩国のWebが地味な「理由」とは?

2009年11月16日 12時00分更新

文● Web Professional編集部

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 岩国市の観光資源は、吉川広家の居城跡地にある吉香公園、岩国城、そして錦帯橋である。ところが、どの観光案内を見ても「岩国藩」とある。江戸時代を通じて、岩国は長州藩内の領地であり、「藩」ではなかった。


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「岩国藩でいい」ときっぱり言い張るのは、岩国市観光協会事務局長の米重良治氏。参勤交代の義務もあり、江戸には藩邸もあったというから「藩」というのもあながち間違いではない。ただ、正式に「岩国藩」が認められるのは明治になってからで、廃藩置県で岩国県に、さらに山口県となり、現在に至っている。「最後には『岩国藩』になったので、観光案内も全部『岩国藩』で統一している」というわけだ。

 錦帯橋を造るように命じたのは3代領主吉川広嘉である。錦川は増水が多く、錦帯橋以前の橋は何度も流された。そこで、増水に耐えられる橋として計画されたのが錦帯橋だ。歩くとわかるが、神社にある太鼓橋ほどではないにしても、アーチ状に反った錦帯橋の路面は歩きにくい。とても日常に使う橋ではない。

 それもそのはずで、錦帯橋は登城橋である。岩国市を一望できる岩国城から見ると、錦帯橋は城のある吉川家の居城がある城下と市街地を隔てる錦川に架かっているのがよくわかる。今は観光客でも大人300円の料金で通れるが、初期の頃は武士だけが通れた。「もっとも、江戸時代中頃には橋を渡った先に土手町が出来て、町民も通れるようになったそうですが」と米重氏はいう。

岩国城から見た光景
岩国城から見ると、手前に吉川氏居城跡があり、奥に市街地がある

 錦帯橋を渡った先には、剣客佐々木小次郎の銅像と、必殺の剣法ツバメ返しを編み出すときの練習に使ったとされる柳の木がある。ただ、錦帯橋が完成するのが延宝元年(1673年)、佐々木小次郎が巌流島の決闘で宮本武蔵に敗れるのが慶長17(1612年)。錦帯橋がかかる前に、領主の館の目と鼻の先で剣を振り回す練習が認められたかどうかは歴史ロマンということだろうか。

佐々木小次郎 ツバメ返しの具体的な方法はわかっていないが、錦帯橋近くには太刀を独特の握りで持つ佐々木小次郎の銅像がある

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