改良を重ね、次々と新製品を投入
TRS-80の大成功により、1981年にはTRS-80向けのソフトウェアや周辺機器を提供する会社が100社以上生まれたらしい。
ただ、ここから同社は迷走を始める。TRS-80 Model Iは、ホビー向けには手ごろな構成であったが、ビジネス向けにはいろいろ足りなかった。そこでもう少しビジネス向けに周辺機器を充実させたラインナップを追加し始める。
その最初のものがTandy 10である。1978年に発表されたこの製品、Intel 8080+48KB RAMに8インチFDD×2という構成の「机」であって、8995ドルの価格がつけられ1980年代後半まで販売され続けたが、売れ行きは芳しくなかった。いくらなんでも大きすぎるからだ。
画像の出典は、“Computer History Museum”
そこで、1979年にTRS-80 Model IIを発表する。Model IIは8inch FDDを1台だけ搭載したモデルである。CPUはZ80の4MHzで、32KB RAMと64KB RAMモデルがそれぞれ3450ドル/3899ドルで販売された。
画像の出典は、“Obsolete Technology Website”
ちなみに内部構造にかなり手が入った関係で、TRS-80 Model 1とのソフトウェア互換性はない。また専用の机も用意され、ここに追加で8インチFDDを3台追加することもできた。ソフトウェアとしてはCP/Mがサポートされたほか、TRSDOSと呼ばれる独自OSとBASICも提供されている。
画像の出典は、“Obsolete Technology Website”
このModel IIは1982年にTRS-80 Model 12とTRS-80 Model 16に置き換えられた。Model 12はFDDを薄型のものに切り替えたほか、内部の回路のほとんどを1枚のボードに置き換えたものであり、Model 16はそこに6MHzの68000カードが追加された。
Model 16は68000がメインプロセッサー、Z80がI/Oプロセッサーとしてメモリー空間を共有するという構成になったものの、肝心の68000を使うソフトウェアが出そろわず、売れ行きは芳しくなかった。
そのModel 16は、1983年にModel 16B(後にTandy 6000に改称)に進化する。68000は8MHzになり、また最大768KBのRAMを搭載するほかに、ついにHDDを利用できるようになる。
この上でUnix System IIIをベースとしたXenixが動くようになったことで、やっと一部のユーザーに受け入れられるようになった。
一方ホビー向けとしては、1980年にTRS-80 Model IIIがリリースされる。
画像の出典は、“Ira Goldklang's TRS-80 Revived Site”
こちらはTRS-80 Model Iの改良型であり、たとえば小文字が表示できるようになる(TRS-80 Model Iはコスト削減のために小文字の表示ができなかった)といった、Model Iで実現できなかったことを反映させたほか、CPUの速度も2.03MHzまで引き上げられた。さらに5インチFDDも搭載可能となっている。
もっとも、こうした改良は必然的にソフトウェアの非互換性をともなうわけで、Model IのソフトウェアのうちModel IIIでそのまま動作するのは8割程度だったらしい。
悪いことに1981年から米連邦通信委員会が施行した電波干渉の防止規格をModel IIIはクリアできず、早々に製品の販売を切り上げる羽目になった。
このModel IIIの後継が、1983年に投入されたModel 4である。Model 4ではついにTRSDOS以外にCP/Mも走るようになった。また初期のロットにはMC68000を装着することも可能になっており、もうModel 16とほとんど変わらない構成である。おそらくではあるが、開発そのものはModel 4とModel 16でかなりの部分が共通な気がする。
この他の系列として、1980年にはTRS-80 Color Computer 1が発売される。こちらはCPUにMotorolaのMC6809E(1.8MHz)を搭載し、4/16/32KBのRAMを搭載できた。さらにMC6847 VDG(Video Display Generator)を搭載しており、カラー表示が可能となっていた。
1983年にはVDGをMC6847T1に交換して表示能力を上げるとともに、最大メモリー容量を64KBに増やしたColor Computer 2が投入された。
1986年にはメモリーを最大512KB(サードパーティ品の中には2MBの拡張メモリーもあった)まで増やし、さらにGIME(Graphics Interrupt Memory Enhancement)なるチップを搭載してColor Computer 1/2との互換性を保った。
こちらは、そもそもMC6809系列ということで、TRS-80シリーズとのソフトウェア互換性もなく、CP/Mも動かなかったが、その代わりにOS/9がColor Computer 3の世代では提供されるようになる。
さらには、京セラが開発したTRS-80 Model 100系列もある。こちらはもともと京セラがKyotronic 85という名称で独自に発売していたものをTandyが買収したもので、シリーズ全体では全世界で600万台以上を売り上げている。Model 100の後継としてTandy 200(1984年)やTandy 600(1985年)もあった。
小売店として会社を存続させるが
2015年に倒産
さまざまな製品ラインナップを広げてきたものの、1981年のIBM-PCや1984年のIBM-PC/AT、あるいは初代Macintoshの登場などで、ビジネスの様相が変化してきた。
TandyもすかさずMS-DOS互換のTandy 2000(1983年)やTandy 1000(1984年)を投入する。
しかし、MS-DOS互換であってもIBM-PCに完全互換でないこと、また市場に多くのPC/AT互換機があふれ、低価格と高速性を競うようになってきたことで、Tandyは自社でのパソコン製造をあきらめることになり、1990年代に自社製品はほぼ製造・販売を終了した。
この後同社は家電修理事業なども取り扱いに加えつつ、広く電気電子機器を扱う小売店として運営していくが、ショップの売り上げは下がる一方であり、同社も厳しい状況に置かれていく。
2000年にはTandyの名を外してRadioShackに改称し、またBlockBuster/Sam's Club/TARGETといった大手チェーンと提携したりと努力をするものの、2015年に倒産処理手続を申請するに至る。
同社はヘッジファンドのStandard Generalに買収され、店舗の半分は携帯電話メーカーのSprintに売却され、残りの半分はRadioShackの名称を購入した(Standard General傘下の)General Wirelessの元で引き続き電気電子機器の小売販売を続けている。
ただ同様なショップは、たとえばCOMPUSA(2008年に事実上の廃業)や、The Good Guys(2006年に廃業)など、RadioShack以前にどんどん廃業に追い込まれていることを考えると、よく持ったほうかもしれない。
Radio Shackの名前は、日本でもアマチュア無線界隈では非常に有名であり、ある種の憧れの店というイメージがあった。個人的な話であるが、それが自分でアメリカに行くようになった2000年頃になると、絶頂期を過ぎて寂れた電気屋さんに化けていたのは、なかなか物悲しいものがあった。
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