匿名の意義と価値は江戸時代にもあった
自分の心の声をどこかに刻み付けること、あるときは権力に対する異議を申し立てること……。紀元79年にヴェスヴィオ火山の噴火によって壊滅したローマ帝国の植民都市ポンペイは、極めて短時間のうちに火砕流と火山灰によって街全体が埋没してしまったため、後世、非常にきれいなかたちで都市の建造物、街区、城壁が発掘された。
その結果、街のいたるところの壁に当時の人々が書いた落書きが発見され、その多種多様な内容の落書きは1万点以上にも上るという。おそらく当時はもっとたくさんの落書きが壁という壁に記されていたことだろう。あたかも実空間におけるTwitterのような風景だったのかもしれない。
「落書き」などと言うとなにやら低俗な響きに聞こえるかもしれないけれども、もともとの語源は平安時代から江戸時代にかけて長らく政治批判の手法として用いられた「落書」(らくしょ)である。
これは人の出入りや通行の多い公共的な場所に匿名で掲示する、権力への不平や不満の表明であり、これを狂歌(社会風刺的な短歌)として発表した場合は特に「落首」(らくしゅ)と呼ばれる。
このようにインターネット以前の時代から、人々は自分の思いを不特定多数に向けて匿名で吐き出し続けているのである。
もう1つ、匿名性の忘れてはならない重要性について触れておこう。我が国における18世紀後半の天明期、江戸では空前絶後の狂歌ブームが発生し、大田南畝に代表される狂歌師が続々と登場した。
狂歌をたしなむ者たちは皆それぞれ「狂名」を名乗ったが、それらはいずれも珍々釜鳴(ちんちんかまなり)、加陪仲塗(かべのなかぬり)、抜裏近道(ぬけうらのちかみち)といったふざけた名前である。江戸を代表する出版プロデューサーである蔦屋重三郎も蔦唐丸(つたのからまる)という狂名を持っていた。
彼らはなぜこれほど狂名にこだわったのか……? 社会学者である加藤秀俊氏の「メディアの展開」の中から、江戸の狂歌師ネットワークと狂名の果たした役割についての記述を引用してみよう。
“名前からではなにもわからない、というのが「狂名」の「狂名」たるゆえんなのであって、本名や職業年齢などを詮索しないのが狂歌世界の本願なのであった。軽妙洒脱な別名を名乗れば、それで風呂屋も旗本も、タバコ屋も家老も、みんなおなじ世界の住人になることができるのだ。その意味で、「狂名」によってむすばれる社会は「仮想現実」の先駆形態であった、といえないこともない。「狂名」というのは「筆名」「仮名」の一種、つまり「実名」と表裏一体の関係にあるごとくにもみえるが、それは同時に「よみ人知らず」の「匿名」にちかいものでもありうる。その虚実の名目論のうえで狂歌熱は盛り上がったのだ。”
ここで注目すべきなのは、狂歌を共通の趣味として集まった者たちは互いを狂名で呼び合い、メンバーの職業や身分、収入、年齢、性別など社会的/世俗的な属性を一切問わなかったということである。
インターネットにおける匿名性の意義と価値はこうした面にもある。発言内容の価値はどこの誰が言ったことかなどに左右されない。匿名でなければ上げられない喫緊かつ切実な声もあれば、余計な情報が付属していない匿名だからこそクリアに聞こえてくる声がある。そのことを私たちは忘れてはならないだろう。
著者紹介――高橋 幸治(たかはし こうじ)
編集者。日本大学芸術学部文芸学科卒業後、1992年、電通入社。CMプランナー/コピーライターとして活動したのち、1995年、アスキー入社。2001年から2007年まで「MacPower」編集長。2008年、独立。以降、「編集=情報デザイン」をコンセプトに編集長/クリエイティブディレクター/メディアプロデューサーとして企業のメディア戦略などを数多く手がける。「エディターシップの可能性」を探求するミーティングメディア「Editors’ Lounge」主宰。本業のかたわら日本大学芸術学部文芸学科、横浜美術大学美術学部にて非常勤講師もつとめる。
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