―皆さん。ここからリヒャルト・シュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」の序奏を脳内再生してください―
パソコンもデジタル録音機材もなかった1960年代初頭。人類はすでにサンプリングキーボードの量産体制を整え、来るべき時代の準備をしていた。
そのキーボードの名をMellotron(メロトロン)と言う。
テーププレイバック式キーボードとも言われるその中身には、磁気テープと再生ヘッドが、まるでピアノのハンマーと弦のように並んでいた。キーボードを押すとテープが引き出され、再生が始まる。この楽器が奏でるのは磁気テープに入った音であり、磁気テープに録音できるものなら何でもキーボードで弾けた。
ザ・ビートルズの「ストリベリー・フィールズ・フォーエバー」、キング・クリムゾンの「エピタフ」、ローリング・ストーンズの「2000光年のかなたに」……。この楽器による名演、名曲は枚挙に暇がない。特に独特の陰影を持つストリングスサウンドは、60年代後半から70年代前半にかけてのロックの黄金期には欠かせないものだった。
問題はテープの再生時間が7秒しかなかったこと。7秒以上キーボードを押し続けると音が切れ、テープは巻き戻される。だから奏者は鍵盤を押し続けないように配慮する必要があった。加えてテープの走行に伴うワウフラッター*1は避けられず、周波数特性も芳しくなかった。
そうした再現性の面でMellotronは既存の楽器の代用にはならなかったし、大きく重く機動性に欠けていて、メンテナンスにも手間がかかった。そして70年代半ばにソリーナ*2が登場し、シンセサイザーのポリフォニック化が進むにつれ、やがてMellotronは表舞台から姿を消して行ったのである*3。
しかし不安定な音程から生み出される独特の「怖さ」「哀感」はMellotronでなければ得られない。代用楽器と見なされがちだが、実はそれ自身が代用の効かないオリジナルな楽器でもある。
そのオリジナルサウンドがいま、iPhoneやiPod touchの上で、たった350円で再現できる。私は迷わずポチった。なんと、あのテープの巻き戻し音や、モーターの回転音まで再現されるのだ。しかもちゃんと7秒で音が切れる!
そのアプリの名をManetron(マネトロン)と言う。
――では「ツァラトゥストラはかく語りき」の脳内再生を停止してください――
しかし一体、こんなニッチなもの、誰が何の目的で作ったのだろう? シャレにしては手が込み過ぎだし、そんなに売れるとも思えないのだが、その作者が意外な人物であることが判明し、慌ててお話を伺うことにした。
*1 テープ走行用のモーターやメカによって起こる回転ムラ。ピッチ変動により音質を悪化させる要素だが、現在はアナログ時代の音のシミュレートに欠かせないパラメータになっている。
*2 Solina String Ensemble。ストリングスアンサンブルを電子的に合成するキーボード。開発はオランダのN.V.Eminent。
*3 現在でもスウェーデンでMellotronの生産・販売は行なわれている。

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