悪行によって生まれる ねじれた人間心理への妄想
「Fable II」では、悪行自体が非常に充実しているが、本来その行為自体が楽しいのかと言われれば、筆者の感覚では「おもしろい」とは言いにくい。しかし、悪行によってアルビオンになんともいえない雰囲気ができるのは確かだ。
例えば、ひと通り街で蛮行を行なったあと、その代償として「踊る」などして村人を楽しませると、場合によっては、好意の印であるラブサインの付く人がいる。しかし、先程まで暴れ回っていたため、群衆の意見はさまざま。聞こえてくる声は、「もっとやれー」的な賞賛から、「おまえのやったことは忘れない」という厳しいヤジまで多種多様だ。快楽重視ともいえる人から、過去を忘れない人まで、人々の考え方や個性が悪行によって浮き彫りになるのだ。これは「賞賛」を前提にしている「善行」にはない、ねじれた世界観だ。
そして、観察力をもって人々を見ていくと、もっと深いねじれ世界が見えてくる。「ラブサイン」の人の中にもヤジを飛ばす人物が含まれていたりするのだ。筆者の解釈では「本当は《スキ》だけど、周りの視線に合わせて表面的には《キライ》といっておこう」といったニュアンスとなる。そして、その人物がヤジを飛ばしながらも、後をついてきようものなら、解釈という名の「妄想」が頭を駆けめぐる。
悪行によってねじれた世界が生まれ、ねじれた世界が「観察のおもしろさ」を生みだし、そして「妄想」へと肥大化させていくのだ。つまり、悪行プレイのもつ本来のおもしろさとは、「妄想」の肥大化という「心の中を探り合う、なりきりプレイ」ではないかと思う。
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