なぜ話はすれ違ったか ~上司とSEの場合~
次に「やろうと思えばできないこともありません」と返事をして、上司の機嫌を損ねた理由を分析してみましょう。皆さんは、次の2つの発言をどのように使い分けていますか?
a. 「やろうと思えばできないことはありません。」
b. 「やろうと思えばできないこともありません。」
2つの文は、「は」と「も」が違うだけです。両方とも日本語文法では副助詞と呼んでいます。ちなみに文法とは理屈ではなくて人間が作り上げた合意です。その合意に基づいて「こう言えばこう伝わる」といった法則ができ、これを文法と呼んでいるのです。そのため、同じ表現でも個人によって理解が異なる場合があります。
この2つの例文はどちらも二重否定文です。二重否定とは否定を否定するので、肯定文と同じ意味になるはずです。例えば、「リンゴは果物ではない」とすれば否定文であり、「リンゴは果物ではないことはない」とすれば「リンゴは果物である」とするのとほぼ同じ意味になります。したがって、上の例文2つはどちらも肯定文と同じ意味があり、「やろうと思えばできる」と言うのと同じことになるはずです。
しかし肯定文ですべてが表現できるのならば、二重否定という表現方法はいらないはずではないでしょうか。現実には二重否定はしっかりと我々の生活に根ざしています。例えば「ねえ、あれっておかしくなくはない?」とよく言うでしょう。二重否定は生活において使われる、いや会話においてこそ多用される傾向があるのは、肯定文が明確な意志を表明するのに対して、二重否定は肯定文では表現できない微妙な心象・機微を醸し出す機能があるからです。
それでは「できないことは」と「できないことも」との心象風景の違いは何でしょうか。副助詞である「は」は「取り立て」という機能があり 、「できるかできないか、どちらかと言われれば」という意味を持ちます。一方、副助詞「も」は「程度」や「添加」という機能があり、「『できない』ことがどの程度か、あるいは『できないこと』が付加的にあるのかどうか」という意味を持ちます。ですから、2つの例文を肯定文で表現すれば次のような意味合いになるでしょう。
a'. 「忙しいのですが、やってもいいですよ」
b'. 「忙しいので、できればやりたくないですね」
上司が機嫌を損ねた理由が分かりましたか? 文法とは生活の中でさまざまな人と会話を重ねることで自然に獲得されます。さらに正確に伝えるための文法は、読書などを通じた対話的思考によって鍛えられるものです。これらの経験が少ないと、先の例のように相手に誤解を与える表現をしてしまう恐れがあるでしょう。
これらの例で示したように、日本語を正しく使うための知識は、まず仕事に不可欠な基礎となることが分かります。もちろんSEに限らず仕事を進めてゆく上で不可欠な知識なのですが、業務の中で精緻なやり取りが発生するSEにとってはさらに重要なものであることを再認識して下さい。
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筆者紹介──福田 修
(株)CSK、日本インフォメーションエンジニアリング(株)を経て、テクノロジー・オブ・アジア(株)設立、代表取締役に。適切な情報技術の動向把握に長け、2000年問題の効果的解決、インドのSI会社との提携、Webアプリケーションへの取り組み、オブジェクト指向設計/開発の導入等を、早い時期から対応し、後発システムベンダへの指導的立場にある。著書に『SEを極める仕事に役立つ文章作成術』(日経BP社発行)がある。
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