科学技術振興機構の広報誌「JSTnews」 第122回
【JSTnews9月号掲載】特集2
「他者」を記憶するメカニズム解明へ! 自閉症への理解、治療法開発にも貢献
2026年09月17日 12時00分更新
私たちは毎日、職場や学校で多くの人と言葉を交わす。親しい友人との会話が弾むこともあれば、苦手な相手には少し身構えてしまうこともある。こうした反応は、「この人は仲の良いAさんである」と相手を識別できるからこそ生まれるものだ。では、脳の中ではどうやって見分けているのだろうか。東京大学定量生命科学研究所の奥山輝大教授は、「誰」という情報を脳の中で作り出している神経細胞の活動を、光遺伝学をはじめとする科学的手法で観察、操作することで、記憶のメカニズム解明に挑んでいる。
海馬にある複数の神経細胞
組み合わせで「個人」を保存
ある人のことを思い浮かべる時、脳内ではどの神経細胞がどう働いているのか。身近なことのはずなのに、その仕組みはほとんどわかっていない。東京大学定量生命科学研究所の奥山輝大教授は、生物が他者を記憶し、自分と他者を区別して認識する脳のメカニズムを、神経細胞レベルで解明しようと研究を進めている。
奥山さんが最初に示してくれたのは、米国の神経学者であるイツァーク・フリード博士らの2008年の研究成果だ。フリード博士らは、薬物難治性てんかんの治療のため脳に電極を埋め込んでいる患者の同意を得て、さまざまな映像を見せた時の神経細胞(ニューロン)の活動データを記録した。すると、被験者が米国の俳優であるトム・クルーズを思い出している時にのみ反応する神経細胞が見つかったという。脳の神経細胞は、トム・クルーズという特定の人物を他の人とは区別し、保存しているというわけだ。
トム・クルーズを見た時にだけ興奮する細胞が脳の海馬と呼ばれる領域で見つかったことや、海馬が損傷した患者は他人の顔を24時間以上覚えていられないということから、他者に対する記憶が海馬に保存されていることは指摘されていた。しかし、海馬のどの部分にどのように保存されているのかはよくわかっていなかった。
そこで奥山さんは、マウスを用いた実験により、海馬の「腹側CA1」と呼ばれる領域にある複数の神経細胞の「組み合わせ」で、他の個体についての記憶が保存されていることを2016年に明らかにした(図1)。さらに、その記憶に直接アクセスして、マウスの記憶を操作することにも成功した。
「神経細胞研究の基本は観察と操作です」と奥山さん。電極を用いて細胞の電気的な変化を記録したり、神経細胞が興奮すると蛍光を発するなどのイメージング手法を用いてその活動を観察したりしている。中でも、光で活性化するたんぱく質分子を遺伝子工学によって神経細胞に導入し、特定の神経細胞だけを高い時間精度で興奮させられるようにする「光遺伝学的手法」は強力なツールとなっている。
図1 他者に関する記憶は、海馬の「腹側CA1」という領域の複数の神経細胞に「組み合わせ」として保存されている。仮に9個の神経細胞があったとすると、3・6・9番の神経細胞が興奮したらAさん、2・3・8番が興奮したらBさんを思い出す、といった仕組みだ。
個人と属性合わせ正確に識別
性別情報が記憶の価値に影響
私たちが友人を思い浮かべる時、その人個人だけでなく、性別や年齢などといった相手に付随する情報、いわゆる属性も同時に認識している。それでは、友人についての記憶を保存する海馬は、属性に関する記憶をどのように保存しているのだろうか。
奥山さんは、1匹の雄マウスに、性別と系統という2種類の属性が異なる4匹のマウスを別々に出会わせた。系統とは遺伝的な性質が似ているグループのことで、「犬に当てはめるなら、柴犬やゴールデンレトリバーといった分類に近いです」と奥山さんは言う。雄マウスに4匹それぞれについての記憶を形成させた後、再び4匹と対面させて神経細胞の活動を調べた。その結果、海馬腹側CA1領域には、特定の個体にのみ反応する細胞と、性別または系統といった属性に反応する細胞が共存していることがわかった。奥山さんは「海馬の中で、特定の個人に反応する神経細胞と、属性に反応する神経細胞の組み合わせによって、他者をより正確に記憶し、識別しているのだと思います」と説明する(図2)。
奥山さんはさらに、雄に関する記憶と雌に関する記憶の質がどのように異なるのかを検証した。雄のマウスに自由に行き来できる2つの部屋を用意し、3日間にわたり、一方の部屋に入った時にのみ、光遺伝学的手法で雄または雌の個体の記憶を人為的に思い出させた。すると、雌の記憶を想起させた場合の方が、雄の記憶を想起させた場合よりも、その部屋に長く滞在した(図3)。さらに、雌という性別の情報を担う細胞だけを活性化しても同様の結果が得られたことから、雌の記憶の価値は、性別の情報によってもたらされていることがわかった。
図3 雄のマウスに、雄または雌と会わせておき、一方の部屋では光遺伝学的手法によって、その相手の記憶を思い出させるようにした。すると、雌の記憶を思い出させた時に、その部屋にいる時間が長くなった。この行動は光を当てるのを止めた5日目にも続いた。
自閉スペクトラム症の
モデルマウスで迫る病態
友人を覚えやすいかどうかには多少の個人差があるが、特に苦手とする人もいる。とりわけ、自閉スペクトラム症の一部の人にはその傾向が見られる。自閉スペクトラム症は、コミュニケーションや対人関係の構築を苦手とし、特定の行動や興味に強いこだわりを持つことなどが特徴だ。
奥山さんは「自閉スペクトラム症は生まれつきの神経発達症で、原因となる遺伝子変異がいくつもわかっています。マウスにも同じ機能を持つ遺伝子があり、その遺伝子が機能しないマウスも他者とのコミュニケーションを苦手とします」と話し、マウスを利用して自閉スペクトラム症の患者の記憶のメカニズムを明らかにしたいと考えている。
マウスは、知り合いの個体と見知らぬ個体を見分けることができ、見知らぬ個体には相手を調べるために積極的に近づく性質を持つ。つまり、以前会ったことのある他者に対して積極的に近づいていったら、「会ったことがある」ことを思い出せていないということだ。
奥山さんは、マウスのこうした性質を利用した実験で、自閉スペクトラム症が海馬腹側CA1領域の異常に起因することを発見。自閉スペクトラム症関連遺伝子の1つであるShank3 を同領域で機能させなくすると、「友人を記憶する能力の低下」という自閉スペクトラム症が現れることを見いだした。これら2024年の成果は、自閉スペクトラム症における神経発達障害のメカニズムの理解を進めることで、新たな治療法の開発につながるかもしれないという。
自分と他者を重ね合わせる
「共感する脳」の本質とは
奥山さんの研究は、他者の認識から発展して「他者と自己の認識の切り分け」にも広がっている。注目しているのは「共感」だ。「私たちが誰かに共感する時、自分と他者を重ね合わせ、相手と同じことを考えています。これは、自分と他者の境界が一時的になくなるようなものです。かといって、人間はいつも共感しているわけではありません。自己と相手を切り分けて自己を成り立たせているものは何か、『他者から見た自己』という観点から研究を進めています」と説明する。
他者に対する共感は日々の生活において、周りの人と良好な関係を築く上で重要な役割を果たしている。共感の根本となっているのは、情動が他者から自己に伝わることであり、これを「情動伝染」という。情動伝染はマウスでも起こり、他者が恐怖や痛みを感じているのを見て、自分もその場でうずくまって震える「すくみ行動」や、逃げる行動などを取る。ヒトの脳の研究で前頭前野という領域が共感に関わることが示唆されていたが、神経細胞レベルでの解明は進んでいなかった。
奥山さんは、蛍光分子を使ったイメージング手法により、他者のマウスが電気ショックを受けている時に応答する神経細胞と、自分がすくみ行動をとる時に活性化する神経細胞の集団が重なっていることを突き止めた。この結果は、他者と自分という両方の情報に反応し、他者の情報を自分の情報かのように変換できる神経細胞群が存在することを示すものだという。自閉スペクトラム症は他者に共感しづらいことが特徴の1つであり、この研究を基に自閉スペクトラム症への理解が進むことも期待される。
親しかった相手を嫌う研究も
雪原に1歩目を踏み出す科学
奥山さんの研究室では、特定の相手に対する「嫌い」という感情がどのように形成されるのか、その脳内メカニズムについても研究している。まず、マウスの攻撃性を人為的に操作することで、「かつて親しかった相手に突然攻撃される」という状況を作り出し、実験対象のマウスがその相手を避けるようになる状況を用意した。
次に、相手を避けるようになったマウスの特定の神経回路を光遺伝学的手法で操作し、相手を嫌うようになることに伴う神経回路の変化を調べた。すると、嫌悪的な感情の形成に伴い、海馬腹側CA1領域と、感情に関する脳領域である扁桃(へんとう)体、そして意欲や行動選択に関わる脳領域である側坐(そくざ)核をつなぐ神経回路のシナプス結合や神経活動が変化することがわかった(図4)。
具体的には、海馬腹側CA1領域の他者を記憶する細胞から、扁桃体の中の恐怖反応に関わる神経細胞へのシナプス結合が増強することを確認。さらに、記憶そのものにアクセスして両細胞間のシナプス結合を人為的に弱めることで、相手を避ける行動を消失させることに成功した。
研究テーマの幅広さが奥山さんの特徴で、その根底には、大学院生時代に恩師から受けた「銅鉄実験はするな」という教えがある。「銅でやったことを鉄でやるな。ある遺伝子の研究でわかったことを、別の遺伝子に対象を変えるだけでは、大きな発見は絶対にできない、ということです。誰もいない雪原に1歩目を踏み出すサイエンスが、私は好きです」。
図4 攻撃的な個体を人為的に作り出すことで、その個体を避けるようになる感情が、脳内でどのように形成されるかを光遺伝学的手法で調べた。海馬腹側CA1、扁桃体、側坐核から成る神経回路が関与していることがわかった。
高校生の教科書に自分の研究成果が載ることが私の夢です。世界中の高校生たちが試験前に、「うわー…覚えるの面倒くさいー!」などと文句を言うくらい、「世界にとっての常識」といえるような発見をしたいです。時間の流れの中に「埋もれないサイエンス」にこだわっていきたいです。
光遺伝学とは
光遺伝学(オプトジェネティクス)とは、遺伝子工学の手法によって、光に反応するたんぱく質を作る遺伝子を神経細胞に導入して発現させることで、光を当てるだけで神経細胞の活動を制御できるようにする技術である。2005年にスタンフォード大学のカール・ダイセロス博士がその手法を発表し、以来、神経細胞の研究を大きく変えている。
神経細胞は、刺激を受けると細胞表面にある「ナトリウムチャネル」という扉を開け、そこから細胞外にあるナトリウムイオンが細胞内に流入すると興奮状態になる。ナトリウムチャネルに似せて、光に反応して扉が開くたんぱく質を神経細胞に作らせれば、光を当てることでその神経細胞を興奮させられるようになるというのが光遺伝学のアイデアである。
光に反応して扉が開くたんぱく質は当初、単細胞緑藻類のクラミドモナスという微生物が持つ光感知器官から見つかった。クラミドモナス由来のたんぱく質は青色の光に反応するが、現在は、橙色(だいだいいろ)や緑色の光に反応するたんぱく質がそれぞれ見つかっており、複数の色を使い分けることでさまざまな制御が可能となっている。実験の際には、マウスの脳に光ファイバーを挿入して、光に反応するたんぱく質を組み込んだ神経細胞に直接光を当てる。遺伝学的手法を用いて標的細胞にのみ光遺伝学たんぱく質を働かせる選択性と、光を当ててから1000分の1秒以内で神経細胞が反応するという即効性が、光遺伝学のメリットだ。
本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ている場合があります

この連載の記事
-
第121回
TECH
細胞の決定的瞬間を「ミリ秒」でとらえる! 顕微鏡開発の最前線 -
第120回
TECH
海洋からウイルスをサルベージし培養、産業の発展へ貢献 -
第119回
TECH
構造色で光を自在に操るハイブリッドナノシートを開発 -
第118回
TECH
生命がわずかな熱を細胞内で維持する新しい原理を発見 -
第117回
TECH
服にコイルを編み込んで全身無線通信・給電ネットワーク、AR 操作を見据えた指輪型マウスも開発 -
第116回
TECH
3つの球体で自由自在&精密に移動できる、全方向移動プラットフォームで挑む製造現場の変革 -
第115回
TECH
対話型能力診断AIエージェントを開発! 社会実装で人とAIの共進化社会の実現を目指す -
第114回
TECH
パンや酒、チョコづくりにも関わる微生物「酵母」の進化を追求 -
第113回
TECH
希少糖が高血糖を改善、2型糖尿病の予防・治療につながる仕組みを解明 -
第112回
TECH
傷ついた植物が器官を再生させる仕組みを解明、バイオテクノロジーの発展へ期待 - この連載の一覧へ










