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「初日300アクセス」から月間33億PVへ──魔法のiらんど爆発的成長の裏側

モバイル黎明期に女子中高生を虜にした"奇跡のサービス"はどう生まれたか──谷井玲氏インタビュー

2025年07月22日 09時00分更新

文● 遠藤 諭

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2週間ほど、河川敷で車中生活を続けていた

―― TOSを設立される前のお話を伺いたいのですが、学生時代はどのように過ごされていたのでしょうか? プログラミングなどを学ばれていたのですか?

谷井 私は三重県の300年以上続く旧家に生まれました。谷井家の長男として生まれ、大学進学で東京に出てきたんですよ。出身高校は東大にも多くの優秀な生徒を送り出している進学校だったのですが、私自身はあまり勉強に身が入らず、遊んでばかりいて法政大学工学部に進学しました。そして、大学1年生の時に2つ年下の女性、今の家内と出会って、大学3年生の時に子供ができました。家内は高校は卒業してからなんですけどね。

 父は三重県から私が東京で勉強できるようにとアパートを借りてくれていたんですよ。ところが大学3年生で子供ができてしまって、父からすれば「何しに東京へ行ったんだ」という話ですよね。そりゃそうですよ。それで仕送りが全部止まってしまったんです。

―― それ、小説じゃないですか。十分に。

谷井 それでね、2人とも食べていけなくなってしまったんです。そんな時、父が私のために買ってくれたスカイラインが駐車場に置いてあったんですよ。ボロボロの車でしたけどね。アパートの仕送りは止まっても車があるので、2人で車での生活を決意しました。最後に残った1、2万円を持って、吉祥寺から松戸方面へと車を走らせたんです。三重とは反対方向に向かいましたね。松戸の河川敷に車を止めて、スモークスプレイで後部座席の窓を見えないように加工して、アパートから布団なども持ち出して、車の中で暮らし始めたんですよ。

 そこで家内と一緒に、もう死のうという話になってしまったんです。決意してエンジンをかけて、「また次の人生で出会えたらいいね」と言いながら運転して、橋の欄干に突っ込もうとしたんですよ。でも、いざその時になると怖くなってしまって。私がギリギリでハンドルを切ろうとするんですが、家内が必死の力でハンドルを戻すんですよ。私も死にそうなくらい怖かったですね。急ブレーキを踏んで、何とか止まることができました。

―― 凄いですね。

谷井 それから2週間ほど、河川敷で車中生活を続けることになりましたね。お金も底をつきそうで、このままではまずいと思いましたよ。河川敷を歩いているとイトーヨーカドーがあって、そこでコカコーラ1リットルと食パンを2つ買いました。水がなくなったら、また水を入れ直して飲んでいましたね。家内と二人で「どうしよう、どうしよう」と途方に暮れました。住所不定なのでアルバイトもできないし、仕送りもないし、銀行口座にもお金が入っていない。そんな状況でしたね。幸い近くの公園にトイレがあって助かりましたが、水ばかり飲んでいたせいか、家内はよくお腹を壊していました。

谷井 そんな時、2人で松戸の町を歩いていたら、柏にある大日本ポリマーという工場の日雇い募集を知りましたね。朝8時に行くと工場のバスが来て、一日働くと5,432円がもらえるというものでした。早速次の日、車を置いて松戸から柏まで歩いて行きました。家内を残して私一人で行ったんですが、ちゃんとバスが来て、簡単な面接の後に採用されました。その日の夕方、5,432円の現金をもらって、家内が待つ車に戻りました。2人で「これで生きていける!」と喜び合いましたね。

 毎日工場に通い続けました。家内も時々一緒に来て心強かったです。2週間ほど働いて、少しずつですが現金が貯まってきたんです。そんな時、五香という地域に順ハイツという古いアパートを見つけました。家賃は月1万4000円と格安でした。家内がよく覚えているのですが、松戸の駅から徒歩40分もかかる場所で、建物は今にも崩れそうな状態でした。今どきこんな建物があるのかと思うほどでした。不動産屋さんで手続きをする時は、保証人欄に知り合いの名前を書き、新しい判子も買って、なんとか契約にこぎつけることができました。そこから一歩一歩、私たちは生活を立て直していったんですよ。

 アパートに住めるようになってからは、仕事を探し始めましたね。朝4時から小伝馬町まで働きに行くのですが、松戸まで歩いて行きました。松戸から五香までの電車賃は会社から支給されるので、実際には歩いて行っても電車賃をもらえたんですね。その出金伝票で収入を得て、一日500円という厳しい生活をしながら、長男が生まれるのを待ちました。そして、そのアパートで長男を育てることになりました。その間も、自分の専門である技術系の仕事を探し続けていました。

 長男が生まれて、ようやく三鷹のアパートに引っ越すことができたのですが、まだまだ500円の生活が続いていました。でも、これは本当に忘れられない思い出なんですよ。子供を産むために毎日500円を貯めていたのですが、ある時、その500円を持って、2人でセブンイレブンに行って、「500円で好きなものを買おう」と250円ずつ分けることにしたんです。家内はチリトマトヌードルを選んで、お湯を入れてもらいました。私はというと、お金がないのにセブンスターのタバコを買ってしまったんです。セブンイレブンの駐車場でタバコを吸っていたら、家内がずっと文句を言うんですね。「お腹の足しにもならないのに」「せっかく分けたのに」「チリトマトヌードル美味しいよ」とか。私はタバコを吸ってくらくらしていたんですが...。

 家内がポンポンと肩を叩くので、また文句を言われるのかと思ったのですが、「食べていいよ」とチリトマトヌードルを半分きれいに分けてくれたんです。あのチリトマトヌードルは本当においしかったですね。今でもフレンチなど高級な料理を食べても、あの時のチリトマトヌードルの味が忘れられないんです。250円を無駄遣いしてタバコを買ってしまった私は本当にとんでもない男でしたが、家内が分けてくれたヌードルが忘れられなくて。そんな楽しい思い出もありましたね。

 その後は朝4時から一生懸命働いて、少しずつお金を貯めていきました。そんなある時、東芝情報機器の関連会社の社長と知り合う機会があり、「うちの会社で働かないか」とお誘いいただいたんです。情報処理の国家資格を取得することを目標に、3ヵ月間徹夜で勉強を続けました。

―― なんとそこからなんですね。

谷井 東芝の関連会社の社長が「若いけどやる気があるから、俺が育ててあげる」と言ってくださったわけです。そして東芝情報機器の子会社の社長が立ち上げた東芝の機械を扱う会社の役員に抜擢していただきました。25、6歳で技術系の最年少役員だったんですね。

 当時はまだNTTデータという会社もできていない頃でした。その会社で経営のイロハを学び、取締役会や株主総会にも出席させていただきました。そこで「こんな感じなら、自分でも会社が作れるかもしれない」と思うようになりました。

 それである日、勇気を出して社長に相談しました。「26歳になって、子供たちにもっと美味しいものを食べさせてあげたい。自分ももっといい生活がしたい。会社を作らせていただけないでしょうか」と。最初は「ふざけるな!」と大変怒られましたね。社長は「お前のことを考えすぎて運転中に事故しそうになった」とまで言ってくださったんですよ。でも1年ほど経って、ようやく「わかった。会社を作っていいぞ」と許可をいただき、それで設立したのがTOSという会社なんです。

 会社を設立してから3、4年が経った頃のことですね。NTSという会社で一緒に働いていた中野という社員を含め、新人で入ってきた社員たちも3、4年経って仕事に慣れてきた頃でしたよ。いや、もっと経っていたかもしれませんね。娘も生まれていましたから。

 「そろそろ結婚式をした方がいいんじゃないか」と考えました。私たちは三重県に帰れない状況でした。私は家を飛び出してきたような形で、妻も東京の不良少女だと思われていたので。そこで、三重県の親族全員を東京に呼んで結婚式を挙げることにしたんですよ。

 その時には娘も3、4歳になっていて、全社員が心を込めてお祝いしてくれましたね。おじいちゃん、おばあちゃんたちも東京に来てくださって、親族が集まる中で初めて正式な結婚式を挙げることができました。これで妻も一緒に晴れて三重県に帰れるようになったんですよ。

 今では長男が三重県の家を継いでくれていて、私は妻と東京で暮らしていますが、もう安泰な状況になりましたね。

―― いいですね。

谷井 平成元年に会社を作った本当のきっかけは、あまり堂々と言えることではないのですが、純粋に自分がお金を稼ぎたかったからなんです。特に子供のためとことんお金を稼いで、何とかしてあげたいと思ったんです。そのためには会社を作るのが一番早道だと考えたんですね。世のためとか、そういう崇高な理由は全然考えていなかったんです。26歳の時の話ですが、実は汚い話なんですよ。

 でも、会社を作って社員が増えてくると、考え方が変わってきたんです。その人たちのことを考えるようになり、会社で利益を上げるためには、お客様のことを考えて、その人たちが喜ぶことをやらないといけないということがわかってきました。経営をやっているうちに、そういうことが見えてきたんですね。でも正直に言うと、最初は完全に自分のため、家族のためだったんです。

―― でも、そこから社会のためという考えに変わっていくのは素晴らしいですね。まるで小説のような人生ですね。いえ、小説以上かもしれません。

谷井 ITは人とつながるための道具であってほしいんですよね。最強の、心温まるものでなければいけないと思っているんです。

 あのおばあさんとの出会いがあった時、会社は倒産寸前でした。でも「人生は一度きり、死ぬわけじゃない」という覚悟を決めて、思い切って賭けに出たんです。まさに崖から飛び降りるような気持ちでしたね。

―― はい。それに社員もついてきた。

谷井 結果的に、それが偶然うまくいったんです。私は、今までの人生で、本当にきつい時期がたくさんありました。とにかく大変な時期が何度もあったんです。でも、そのきつさを乗り越えた先に、今の自分があるということが分かるんですね。


 

 本インタビューは、谷井玲氏本人のほか、ZEN大学 コンテンツ産業史アーカイブ研究センターの遠藤と大石和江が聞き手として参加、また同センター顧問の郡司聡が同席のもと行われた。


「コンテンツ産業史アーカイブ研究センター」について

 本稿で紹介しました谷井玲氏のインタビューは、ZEN大学 コンテンツ産業史アーカイブ研究センター(HARC:History of Content Industry Archives Research Center)のプロジェクトの一環として行われたものです。ZEN大学 コンテンツ産業史アーカイブ研究センターは、2025年4月に開学したZEN大学内に設立された研究拠点です。同センターでは、日本を中心としたコンピューター、ゲーム、アニメーション、漫画、出版など、幅広いコンテンツ産業に関する貴重な資料や証言を収集・保存し、オーラル・ヒストリー(口述記録)として体系的に整理、公開することを目的としています。デジタルゲームとその関係資料の保存などに関する研究実績を持つ細井浩一氏を所長に迎え、同大学の教員陣を中心にコンテンツ産業に知見を持つ研究員によって進められています。2025年7月より順次その内容はアーカイブとして内外に公開されます。

ZEN大学:https://zen.ac.jp/
コンテンツ産業史アーカイブ研究センター:https://zen.ac.jp/harc


日本の表現文化資源のアーカイブについて考える共同研究締結記念 特別講義「『アート・エンタテインメント』 学ぶ、創る、残す〜伝統から現代まで〜」のご案内

 ZEN大学 コンテンツ産業史アーカイブ研究センター(HARC)と立命館大学 アート・リサーチセンター(ARC)は、両者の共同研究および学術交流を記念した特別講義「『アート・エンタテインメント』学ぶ、創る、残す〜伝統から現代まで〜」を2025年7月23日(水)13時00分より開催します。

 日本の表現文化資源を「学ぶ」「創る」「残す」ことに焦点を当て、長年デジタルアーカイブ事業に取り組んできたZEN大学 HARC細井浩一所長と立命館大学ARC赤間亮センター長の二人がアーカイブの重要性や両センターの取り組み、AIの時代に問われる著作権をめぐるテーマ、未来に向けた文化創造の展望などについて語ります。本講義は、YouTubeおよびニコニコ生放送で無料配信します。

【特別講義:『アート・エンタテインメント』学ぶ、創る、残す〜伝統から現代まで〜】
日時:2025年7月23日(水) 13時00分〜14時30分
登壇者:赤間亮(立命館大学ARCセンター長)、細井浩一(ZEN大学HARC所長) ※敬称略
モデレーター:郡司聡 (ZEN大学HARC顧問)
主催:ZEN大学コンテンツ産業史アーカイブ研究センター(HARC)、立命館大学 アート・リサーチセンター(ARC)
内容
赤間亮 「アート・エンタテインメントとしての"創るアーカイブ"」
細井浩一「文化保存と創造をつなぐアート・エンタテインメントのアーカイブ戦略」
パネルディスカッション「アート・エンタテインメントを『学ぶ』『創る』『残す』」
ニコニコ生放送https://live.nicovideo.jp/watch/lv348097637
YouTubehttps://www.youtube.com/live/OGohxGBcwf4

 なお、ZEN大学では、これに関連する以下のイベントも予定しています。

【ニコニコ美術館 特別番組:『ゴジラ-1.0』のVFXを手掛ける白組創業者、エニックス創業者、日本のインターネットの父ほか コンテンツ産業のキーマンの「証言」を収集、アーカイブ、研究する活動にせまる】
日時:2025年7月28日(月) 19時00分〜20時30分
出演者:細井浩一(ZEN大学HARC所長)、郡司聡(ZEN大学HARC顧問)、橋本麻里(ライター・エディター)、山本貴光(文筆家・ゲーム作家) ※敬称略
内容:ZEN大学HARCが公開したオーラル・ヒストリーのアーカイブについて、解説を交えて紹介
配信URLhttps://live.nicovideo.jp/watch/lv348143412

 

遠藤(えんどうさとし)

 ZEN大学客員教授。ZEN大学 コンテンツ産業史アーカイブ研究センター研究員。プログラマを経て1985年に株式会社アスキー入社。月刊アスキー編集長、株式会社アスキー取締役、株式会社角川アスキー総合研究所取締役などを経て、2025年より現職。DCAJ主催のCTIP(コンテンツテクノロジー・イノベーションプログラム)の審査委員長、ISCA(INTERNATIONAL STUDENTS CREATIVE AWARD)2025の審査員、MITテクノロジーレビュー日本版 アドバイザーなどを務める。2025年7月より角川武蔵野ミュージアムにて開催中の「電脳秘宝館 マイコン展」で解説を担当。趣味は、カレーと錯視と文具作り。2018、2019年に日本基礎心理学会の「錯視・錯聴コンテスト」で2年連続入賞。その錯視を利用したアニメーションフローティングペンを作っている。著書に、『計算機屋かく戦えり』(アスキー)、『頭のいい人が変えた10の世界 NHK ITホワイトボックス』(共著、講談社)など。


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