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100万人に影響を与えるサービスに携わりたい

数回線の無線から数百万回線のIPv6まで JPNE鶴新社長が振り返る通信企画の半生

文●大谷イビサ 編集●ASCII 写真●曽根田元

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今年3月に日本ネットワークイネイブラー(JPNE)の新社長に就任した鶴昭博氏にインタビュー。キャリアを開始した日本テレコム時代から、IPv6やローミングと関わるようになったKDDI時代、そしてKDDI時代から縁浅からぬJPNEへ。インタビューの前半では、30年に渡る通信企画の半生を振り返ってもらった。(以下、敬称略 インタビュアー ASCII編集部 大谷イビサ)

日本ネットワークイネイブラー(JPNE) 代表取締役社長 鶴昭博氏

新卒で日本テレコム入り 委託研究員からアクセス網人生へ

鶴:1992年4月に日本テレコムに入社しました……って、そんな昔からで大丈夫ですか?

大谷:はい。私はまだ大学生でしたけど(笑)、大丈夫です。

鶴:新入社員として建設部の伝送課に配属されて、NTT東西の各支店にPOI伝送路の相互接続の申し込みをしたり、支店を飛び回って工事調整をしたりといった仕事を2年間やり、入社3年目で委託研究員として国内大学に派遣されました。

大谷:これはなんか会社側の意図があったんですか?

鶴:入社前に大学院に進学するか、そのまま就職するか悩んでいたことを面接で話したことがあり、そのことを当時の人事課長が覚えていてくれていて、委託研究員として選抜いただいたという経緯だったと思います。

大谷:いやあ、めちゃいい会社ですね。

鶴:はい。会社に戻ってきたのが1996年になりますが、そのころはまだインターネットは研究開発レベルでの取り組みでしたね。私は技術部のネットワークグループに配属となり、電話トラフィック管理を担当しました。

大谷:ちなみに新聞のアルバイト募集で、私がアスキーにアルバイトで入ったのがその年ですね(笑)。

鶴:あとCATV事業者と合従連衡して、NTTに対抗するインターネット接続網を作ろうというプロジェクトにもかかわりました。このプロジェクトは形を変えてケーブルインターネットの普及につながっていくことになります。

大谷:ちょうどインターネットブームまっただ中ですね。

鶴:はい。1997年から僕の「アクセス網人生」が始まります。

当時の日本テレコムは中継事業者だったので、アクセス網はあくまでNTTのもの。NTTの中継交換機をバイパスすることで、市外電話がNTTよりも安いというのがサービスの中心でした。

でも、これからは顧客とダイレクトアクセスでつながなければ生き残れないということで、新電電各社もアクセス網に力を入れ始めます。そこで首都圏を中心に光ファイバー網を敷設したり、無線で直接加入者につなげるWLLやFWAのようなプロジェクトがスタートします。社会人5年目の私も、サービス企画にかかわるようになりました。

数回線しか売れなかった無線サービス 22万回線で売り払われたADSL

大谷:1997年はNTTの常時接続サービスであるOCNが生まれた年ですね。日本テレコムだとODNですかね。

鶴:日本テレコムでは26GHz対応のポイントツーポイント無線を使った「ODNエアリンク」というインターネット接続サービスを立ち上げました。1.5Mbpsで月額10万円を切る料金設定で、当時は画期的だったんです。

大谷:確かに当時はADSLサービスもなかったので、ワイヤレスで1.5Mbpsなんて未来のサービスですよね。

鶴:法人向けの常時接続サービスとして提供する計画でしたので、見通しが確保しやすい複数のオフィスビル屋上に基地局を立てました。でも、セル半径は1km程度で、結果数回線しか契約取れなかったんですよ。

大谷:えっ? こんなにいいサービスなのに。時代を先取りしすぎたんですか?

鶴:そうかもしれません。あと、周波数帯が26GHz帯なので、アンテナ間の見通しが利かないと物理的につながらなかったり、いわゆる降雨減衰によりリンクが安定しなかったりといった問題がありました。今のローカル5Gも同じ周波数帯だったら、結果も同じだと思います。

結局、プロジェクトは1999年に解散。次にNTT東西のドライカッパーによるADSLの事業化を担当することになりました。

大谷:東京めたりっく通信のADSLサービスが1999年末ですからね。当時はNTTの限られた局舎のみで利用可能という状態でした。

鶴:当時のKDDIはFTTHをやるつもりで、ADSLの事業化はやらなかった。DDIを創業された千本さんがインターネット常時接続時代を見据えてイーアクセスを創業したという経緯もあったと思います。

一方、日本テレコムは試験サービスから始めて、「J-DSL」というブランドを立ち上げて自前で本格事業展開する計画を進めていました。そこで初めて大手ISPさんとも提携し、ODNだけでなくローミング提供も合わせてスタートしました。

やはりアクセス網って、自社ブランドだけだと埋め切れない。他のISPに提供しないとペイできないと当時から思っていたので、最初から他のISPと組むことにしました。これは22万回線を超えるところまでいったんです。

大谷:おおっ!! ODNエアリンクからすると1万倍じゃないですか!

鶴:でも、2001年にボーダフォンが日本テレコムを買収した結果、ADSLはノンコア事業の烙印を押され、2002年5月にイーアクセスに事業譲渡されてしまいます。22万回線のお客様はすべてイーアクセスに全部移行してしまうんです。

大谷:ビジネスと市場動向とは言え、それはけっこう泣ける話ですね。

鶴:で、私はというと、ISPとして新事業を立ち上げるために作られた部署に異動になったので、今度はトリプルプレイサービス(電話、ネット、映像)について一生懸命勉強しました。当時、KDDIはすでに「光プラス」でトリプルプレイサービスを手がけていたので、われわれも提供エリアを絞ってインターネットマンション向けにトリプルプレイが提供できないか検討するためにいろいろな会社を訪問しました。

また、PPPoEネットワークのローミング提供についても企画して、ISPに営業同行したりしていました。残念ながら成約することはなかったですが。当時同じグループにISPの共同ポータル事業として立ち上げられた「アンパサンド」というプロジェクトに関係していたメンバーもいて、それがKDDIを知る契機になりました。2005年頃は法人向けのイーサアクセスを担当したりしましたが、結局コンシューマー向けFTTHをがんばっているKDDIに転職することにしたんです。

大谷:そこから第2幕になるんですね。

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