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PDF開発者が描いた未来は実現されたのか? アドビのベテラン社員に聞いた

【追悼】PDFの生みの親 チャック・ゲシキ博士の功績を振り返る

2021年05月28日 09時00分更新

文● 大谷イビサ 編集●ASCII

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ライバルはあくまで紙 PDFはコミュニケーションツール

大谷:創業者の二人にはお会いする機会はあったのでしょうか?

楠藤:私が入社した21年前の時点でチャックはすでに60歳だったと記憶しています。取締役会メンバーになってからは来日していないはずです。ただ、入社直後に一度来日していて、彼が参加した社内ミーティングに参加したことがあります。その際にいろいろ調べてみると、改めてすごい人だなと。

大谷:設計思想は生きていたわけですね。

The Camelot Projectと名付けられたPDFの設計思想を書いたメモ

楠藤:チャックが語っていたのは「PDFのライバルは紙である」ということ。Webページ(HTML)でも、Wordでもなくて、紙なんです。だから、当初から紙以上のものを作るにはどうしたらよいかという大きなビジョンを描き、紙でできることは当たり前にでき、デジタルでないとできないことを追求していました。

ですから、私もペーパーワークに価値を感じているお客さまにこそ、Acrobatは売れると思いました。予想通り、官公庁はペーパーワークの価値を理解していたので、いち早く導入してくれました。

今西:アドビはPostScriptからスタートした会社ですが、PDFはその次のステップとなるファイルフォーマットです。PostScriptはデバイスに依存せずに印刷を可能にする言語でしたが、PDFも同じくデバイスに依存せず、ドキュメントを読める環境を実現するという目的がありました。両者とも技術ベースは同じですが、DTP・デザインツールと異なり、創業者の二人はPDFやAcrobatをビジネスコミュニケーションツールと考えていました。

大谷:では、Acrobatはコミュニケーションツールとして進化してきたんですね。

今西:はい。僕がアドビに入社した当時、Acrobatのバージョンは3.0で、ちょうど4.0をリリースしようとしていた頃。でも、Acrobatはバージョン2.0の頃から注釈を付けたり、暗号化してパスワードをかける機能を備えていたんです。

大谷:なるほど。Acrobatの主要な機能は、25年以上前にすでに搭載されていたんですね。

楠藤:はい。テレワークやDXにおいて、これから役立つであろう機能が20年前にすでに実装されていたわけです。

大谷:日本語対応についていかがですか?

今西:僕が入社した当時でも、日本語対応していました。3.0や4.0はまだ未熟な部分はありましたが、5.0では十分になったと思います。アドビも日本市場を重視していました。

楠藤:多言語対応する際は、やはり優先順位が付けられるのですが、優先順位の高いグループの米英独仏の中に日本も入っています。日本市場はワールドワイドでもシェアが大きいし、日本のお客さまは品質に厳しいので、製品も鍛えられます。(DTPソフトである)InDesignが日本市場でデファクトになったのも、日本のお客さまからのタフなリクエストに応えられたからですね。

今西:アドビは会社として日本語への造詣が深かったんです。昔、オライリーから「日本語情報処理」という技術書籍が出ていたのですが、これを書いたケン・ランディはアドビの社員でした。のちに彼は「日中韓越情報処理」という本も書いています。

国産製品や国内メーカーであることをアピールするPDFツールのメーカーもありますが、ITの世界では別に日本人だからといって日本語をうまく処理できるわけではないですよね。フォントや文字コードの概念を理解でき、適切に扱えるプロフェッショナルがいるから、言語の壁が障壁にならなかったのだと思います。

電子署名の機能はパートナーや社内ですら理解されなかった

大谷:では、3.0や4.0といったバージョンではどんな進化があったのでしょうか?

今西:バージョン4.0の目玉の1つとして搭載されたのが電子署名です。今となっては電子契約のためにPDFを使うのは当たり前になっていますが、当時は私も電子署名を理解できなくて、ちゃんと説明できるようになったのはリリースから約1年後ですね。

楠藤:電子署名の仕掛けって、基本的には公的な機関がデジタルの世界で印鑑登録を行なうようなものなので、なかなか大がかりです。電話と同じように、相手も同じツールを持っていないとワークしません。そういう意味でコミュニケーションツール。でも、お客さまやパートナー企業はもちろん、社内ですらこの概念はわかってもらえませんでした。

ですから、パートナーに対してではなく、お客さまに対するダイレクト営業がメインでした。お客さまに使ってもらい、価値を理解してもらえれば、買ってくれるだろうということです。もちろん、とても大変だったのですが……。

大谷:では、どうやって電子署名を訴求してきたのですか?

楠藤:Acrobatの電子署名は、4.0にはほぼ完全な機能が搭載されていて、はんこのように押印が見える可視署名と、印影が見えない不可視署名の両方をサポートしていました。その一方で、国内ベンダーはテキストベースのXMLだったので、確かに改ざん検知や暗号化はできるのですが、目に見える可視署名はできなかったのです。

一方、2001年には国内でも電子署名法が施行され、電子署名にも手書きの署名や押印と同じ効力が認められる法的な基盤ができました。この法律を作るために経産省や国交省、法務省のメンバーでチームを作ったのですが、グレーゾーンも残りました。国内ベンダーにいろいろ聞いたらしいのですが、「可視署名は実現不可」というベースで進んだと聞いたことがあります。

大谷:売る側も、買う側も、暗中模索していたんですね。

楠藤:そんな中で、経済産業省に呼ばれてAcrobatを見てもらったところ、署名していることが目で見てわかることに驚かれました。つまり、技術的には理解されていても、可視署名は実装できないと思われていたのです。でも、署名したことが人の目に見えない電子署名はやっぱり使いづらいんですよね。

もちろん、サーバー側で署名を検証する仕組みもあるかもしれませんが、サービスが終了したら、オンプレに残ったPDFファイルは誰が検証できるのかという話になります。その点、現在の電子署名はほぼPDFに対して行なうのですが、署名を表示して、検証する仕組みはAcrobat Readerに依存しています。

大谷:PDFの電子署名に関してはアドビの技術がベースなんですね。

楠藤:商法改正のときも、法務省に働きかけて電子署名の規格にアドビの技術を提案しました。当然、「独自技術じゃないか?」と言われましたが、実際は公開されている技術だから、国内ベンダーでも開発できます、ということで、官報にも記載されました。

今も世に出ているPDFの電子署名はほぼアドビが提唱した技術を使っているはずだし、署名されているPDFを検証するための機能も、PCで動作するすべてのAcrobat Readerに実装してきました。無償で提供している割には、Acrobat Readerにはさまざまな技術が投入され、巨額の開発投資が行なわれているのです。

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