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ロードマップでわかる!当世プロセッサー事情 第438回

業界に痕跡を残して消えたメーカー UNIX市場を拡大しダークサイドに堕ちたSCO

2017年12月18日 12時00分更新

文● 大原雄介(http://www.yusuke-ohara.com/) 編集●北村/ASCII.jp

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PC向けUNIX市場のシェアが40%に達する

 こうした一連の活動を通じて、SCOは急成長した。1984~1987年の間、同社の売上は毎年ほぼ倍増した。1987年度の売上は2710万ドル、営業利益は50万ドルに達し、約500人の従業員を抱え、およそ6万システムで利用されていた。

 SCOの占めるPC向けUNIX市場のシェアは、1986年1月には12%だったのが、1987年末には40%以上に達している。

 競合メーカーはいずれもOEM向けがメインだったのに対し、同社はリテール向けのシェアが多く、さらにPCベースでマルチユーザー/マルチタスク環境を利用できるといった点を強みにしていた。

 同じ1987年にはIBMのPS2向けXENIXもリリース、1988年にはオフィス向けSuiteを強化しており、Sun MicrosystemsですらSun-3向けアプリケーションに関して同社と提携を結んだほどだ。

 ちなみにSCO Professionalに含まれるLotus 1-2-3の改良版に関しては1990年にLotusから訴訟を起こされているが、これは最終的にSCOが改良版を取り下げるとともに、既存のユーザーに対してはLotus 1-2-3のUNIX System V版を推奨することで法廷外での和解に達している。

 1989年には32bitのGUIを搭載したOpen Desktopをリリースする。正確に言えばOpen DesktopはGUIの名称というよりはOSの名称で、当初はGUIもX Window Systemも含まれていないものだったが、すぐにどちらも追加されている。

 このGUIは下の動画をみて頂くとわかるがMofifベースのものである。GUIといえばPC向けだとこの当時Windows 2.xかQuarterDeckのDeskView、IBMのTopView程度で、しかもDeskViewやTopViewはキャラクタベースのGUIだったことを考えると、MotifがPCの上で動くというインパクトはなかなか大きかった。

 1990年にはAT&Tとインテルの共同で、386および486上で動く、異なるバージョンのUNIXのバイナリー互換性を取るための仕様であるiBCS(Intel Binary Compatibility Standard)を策定するなどして、標準化にも貢献した。

 この年、SCOは1億1890万ドルを売り上げており、前年比43%増しである。翌1991年にはACE(Advanced Computer Environment) Initiativeにも参加している。

 これはPCとワークステーション向けの標準プラットフォームを構築しよう、というものでCOMPAQ、DEC、MIPS(Silicon Graphics)、マイクロソフトをあわせた6社が創立メンバーに入っているが、そもそもx86と非x86が同じプラットフォームで、というのは理念はともかく実装で紛糾するのは明白で、翌年5月にCOMPAQとSCOはACEを脱退している。

 ただこうした状況であっても、本業とでも言うべきPC向けUNIXは好調で、1991年の時点で、PCベースUNIXの出荷量の65%、台数にして35万台のシェアをSCOは確保している。同年度の売上は1億3780万ドルに達した。ちなみにこの1991年度に社員数は1300人を超えている。

 翌1992年にはマイクロソフトと協業、LAN Managerのプロトコルをサポートし、また11月には米国防総省との契約も獲得、空軍向けの7万台のワークステーションにSCOの製品が入ることになる。

Windows NTにシェアを奪われ赤字転落
事業をCalderaに売却

 このあたりまで、SCOは非常に順調だった。その1992年には1億6370万ドルを売り上げ、翌年ついに株式上場を果たす。皮肉なのはその上場直前に、Larry Michels氏はセクシャルハラスメントでCEO職を追われ、同社の欧州部門のトップだったLars Turndal氏がCEOに就く。ちなみに息子のDoug Michels氏の方はCTO兼執行副社長となっている。

 別にTurndal氏が悪かったわけではない(1995年7月にCEOは元NCRのAlok Mohan氏に代わっている)のだが、ここから同社は停滞と縮小を始める。

 きっかけはマイクロソフトによるWindows NTの投入である。これに対抗すべく、SCOは他のUNIXベンダーとともにCOSE(Common Open Software Environment)という業界団体を結成し、これは結果としてUNIXの方向性に大きな影響を与えるものになったが、本来の目的である「Windows NTに競合できるアプリケーション環境をUNIXに提供する」ところには至らなかった。

 またSCOの製品は当初デスクトップ向けとして多く利用されていたが、当然サーバー向けの市場は美味しいわけで、ここに向けてOpen Serverを提供する。正確に言えば、Open Desktopのバージョンアップ版がOpen Serverになった形だ。

 デスクトップのシェアをWindows NTにある程度獲られるとしても、サーバーのシェアをおさえられれば影響は最小に抑えられる、という判断だったのだと思う。

 1995年後半、SCOはNovellから旧AT&TのUnix System Laboratoriesの資産と、Novell版のUNIXであるUnixWare 2を丸ごと買収する

 SCOの腹積もりとしては、Open Server 5.0にUnixWare 2を組み合わせれば、ハイエンドサーバーにも利用できるUNIXが提供できる、ということだったようだ。

 このころHPは64bit版のPA-RISCを出荷開始しており、さらに1994年からはインテルと共同でItaniumの開発を行なっていた。Itaniumは当初1999年に量産出荷というロードマップだったので、これに間に合うように64bit版のUNIXを提供すれば、ハイエンドサーバー市場をおさえられる、というわけだ。

 さらに、これとは別にVoyagerと呼ばれる新しいサーバー向けOSの開発も始めていた。こちらはPBXやネットワークスイッチ向けを志向したものだ。

 1996年に入ると、インターネットの波が押し寄せてきた。これに向けてSCOはTarantella network management softwareを1996年末に発表する。これはウェブベースでサーバーアプリケーションを管理するためのシステムである。

 あいにくと、こうした1994年以降に打った手は、いずれも功を奏しなかった。確かに1998年に、Open ServerとUnixWareを合体させたUnixWare 7は出荷されたものの、SCOが期待するほどのシェアは獲れず、特にサーバー向けに広く普及したとは言いがたかった。

UnixWare 7

 Voyagerは結局完成しなかったらしい。インターネット関連製品も、成功したとは到底言いがたい。そしてItaniumはご存知のとおり限定的な市場にとどまっている状況である。しかも、Linuxがひたひたと追い上げてきた。

 結果、1999年度には2億2360万ドルだった売上は、2000年度には1億4890万ドルまで急激に下がり、営業利益も1999年度の1650万ドルの黒字から2000年には5700万ドルの赤字に転ずる。

 これを受け、SCOは2001年5月にUnixWareとOpen Serverの両部門をCaldera, Inc.に売却。Tarantella部門を残し、社名もTarantella, Inc.に変えて再出発するものの、2005年にSun Microsystemsに買収されて消えることになった。

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