5年間で売上が1900倍に急成長
世界7位のコンピューターメーカーに
Prime 200に続き、1973年にはメモリーのパリティーを省いたり、CPUからFPUを省いたりして低価格化したPrime 100と、逆にメモリーを最大1MBに強化し、性能も2.5倍(それでも0.25MIPS)に引き上げたPrime 300をリリースする。
このあたりから同社のニーズは急に増え始め、1976年に投入されたPrime 400ではさらに性能が強化され(0.5MIPS)、翌1977年にはPrime 500(0.6MIPS)も投入、売上も急増した。
画像の出典は、“Computing at Chilton: 1961-2000”
ちなみにどのタイミングかははっきりわからないのだが、Prime 500はすでに同社は32bitマシンと称しており、どこかで32bit拡張が行なわれたようだ。
Primeの1972~1976年の売上記録が残っているのだが、数字をピックアップすると以下のようになっている。5年間で売上は1900倍にも達し、1976年には累積赤字も一掃するという大躍進を遂げることになった。
Primeの1972~1976年の収支 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
会計年度 | 売上 | 営業利益 | 純利益 | |||
1972年 | 1.2万ドル | -97.9万ドル | -96.6万ドル | |||
1973年 | 178.3万ドル | -175.1万ドル | -183.1万ドル | |||
1974年 | 653万ドル | -22.3万ドル | -3.2万ドル | |||
1975年 | 1138.7万ドル | 119.7万ドル | 69.2万ドル | |||
1976年 | 2279.7万ドル | 338.4万ドル | 242.9万ドル |
この売上増を受けて、同社は1979年に“50 Series”と呼ばれるPrime 450/550/650/750を発表する。従来のPrime 300/400/500のアップグレード版にあたり、プロセッサー性能とメモリー容量、さらにストレージの強化が図られたバージョンである。
ハイエンドのPrime 750では性能がついに1MIPSに達し、前年にDECの発表したVAX11/780と互角とされた。1980年には、PRIMENETと呼ばれる、Primeのマシン同士をX.25回線経由で接続するソフトウェア、さらにLANに相当するRINGNETというローカルの接続もサポートするようになる。
特にPRIMENETの上ではIPSS/Telenet(*)というサービスが利用可能だった。IPSSはInternational Packet Switching Serviceの略で、もとは英国のBritish Telecomが開始した英国内の電話回線によるデータ転送サービス(PSS:Packet Switching Service)を全世界に拡張したものである。
(*)telnetではなくTelenet。Unixの上で動くターミナルサービスではなく、そういう名前のサービスである。
同じ1980年には、ローエンド向けのPrime 150/250(どちらも0.5MIPS)を、翌1981年にはPrime 750をデュアルプロセッサー化したPrime 850も発表された。
1978年の同社の売上げは5000万ドルを超え、これが1979年になると1億ドルを突破して1億5300万ドル、純利益も1700万ドルに達している。同社はこの時点で世界で7番目の規模のコンピューターメーカーになっていた。
実はこの躍進の影の立役者は、Baron氏に代わって1975年から同社のCEOに就いたKenneth G. Fisher氏である。彼は就任半年で同社を黒字に持っていき、その後急速に売上を伸ばしていったが、ただFisher氏と取締役会の関係は、控えめに言ってもあまりよろしくなかった。
1つは、もともとのPrime Computerのモットーが先ほどの画像にあるように、使いやすいソフトウェアを提供することが目的(ハードウェアはそのための手段)だったのだが、Fisher氏はハードウェアを売って利益を稼ぐ(ソフトウェアはハードウェアを売るための手段)という、一般的に良くある考えの持ち主だったことだ。
このFisher氏の下で、同社のシステムの目指す市場がころころ変ったのは、取締役会としてもあまり好ましくなかったのであろう。1980年の業績は売上が2億6760万ドル、純利益が3120万ドルと引き続き絶好調だったにも関わらず、1981年6月にFisher氏は辞任する。後任には、IBMからやってきたJoe M. Hensonが就いた。ちなみにこのとき、幹部ら6人も同時に辞職している。
Henson氏の最初の年は、引き続き絶好調であった。1981年の売上は4億3600万ドルに達し、純利益も4500万ドルになっている。ただこのあたりから、同社の方向性が変ってくる。1982年には低価格のデスクサイドマシンであるPrime 2250を、1983年にはハイエンドのPrime 9950を投入する。
画像の出典は、“Google books所蔵のComputerworld 1982年12月13日号”
その後、毎年のように性能を上げたバージョンアップ版をリリースする。Prime 2250は0.5MIPS、Prime 9950は2MIPSのマシンだったのが、1987年にリリースされたPrime 2455/2755は1.2MIPS、1986年末にリリースされたPrime 9955-IIは4MIPSとそれぞれ性能が倍増している。
1987年には新しい6000番台のPrime 6350(11.8MIPS)とPrime 6550(23.6MIPS)も投入され、これらはSuper Mini Computerと分類されるに至る。
ちなみにこの6000シリーズ、同社としては初のCMOSベースの製品である。また、Primosを捨ててUNIXベースのOSが提供されることになった。
さらに同じ1987年には、インテルの80386を搭載したEXL-316という、限りなくPC/AT互換機に近いマシンが、やはりUNIXベースのOSを搭載して提供されることになった。
この急激な方向転換はなぜかというと、同社の戦略の変更があったためだ。当初Prime Computerのマシンは、低価格ながら浮動小数点演算が可能ということで科学技術計算向けに多く利用された。
その後はCAD/CAM分野やGIS(Geographic Information System:地図情報システム)分野のニーズが高まったことに向けて、こちらに注力するようになっていく。1982年にはMedusa design and drafting software(あるいはMedusa CAD)と呼ばれるCADソフトをリリースする。
これは英ケンブリッジにあったCambridge Interactive Systems Ltd.という会社と共同で開発したもので、投入スケジュールは当初よりも遅れたものの、投入後は目覚しい売上を見せた。
1985年には、さすがにもう倍々では増えないものの前年比で20%の売上増を果たした。実はこの売上は、営業とサポートのために600人もの新規採用を行なって(これで従業員は8600人ほどになった)営業攻勢をかけたことにも起因する。
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