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ロードマップでわかる!当世プロセッサー事情 第407回

業界に痕跡を残して消えたメーカー ワープロソフトWordStarで分裂したMicroPro

2017年05月15日 11時00分更新

文● 大原雄介(http://www.yusuke-ohara.com/) 編集●北村/ASCII.jp

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WordStarが大ヒット
米国で最大規模のソフト会社に成長

 1979年にWordStarが発売されると、たちまち大ヒットした。画面は下の画像のように2分割されており、下段で入力することになる。

MS-DOS上で動いているWordStarの画面。慣れたら上のEDIT MENUを消して画面を広く使うこともできた

 例えば太字(Bold)にしたければ、その前後に^B(Ctrl+B)で挟み、斜体(イタリック)なら^Yで挟むといった具合に、文字修飾やさまざまなページレイアウト機能を搭載し、しかもそれが画面上で見えるという意味では始めてのWYSIWYG(What You See Is What You Get:画面の上に表示されたものがそのまま印刷できる)環境だったからだ。

 もちろんテキスト画面なので限界はあり、完全に一致するWYSIWYGがパソコンの世界で一般的になるのはMacintoshを待たねばならないのだが、1970年代としてはこれは十分先進的で、しかも使いやすかった。

 結果、1979年のMicroProの売上は50万ドルだったのが、1980年には180万ドル、1981年には520万ドルと同社は急成長を遂げる。そして1982年にIBM-PCとMS-DOSが登場すると、WordStarもMS-DOS環境に移植される。

 1981年までは、パッケージが単体で売れるというよりは、特定メーカーのマイコンにバンドルされる形(例えばOsborne-1)で出荷される分量が多かった。こうしたものは確実に売れる代わりに単価そのものは、当然ディスカウントされるので抑制方向に働く。

 ところがIBM-PCとMS-DOSが出現したことで、今度はパッケージの形でユーザーが直接購入する形になる。結果、1982年には2300万ドル、1983年には4500万ドル、1984年には7000万ドルまで売上が伸びることになる。その1984年には同社は新規株式公開も果たしており、この時点では米国で最大規模のソフトウェア会社にのし上がった。

新規株式公開で失策
会社を乗っ取られる

 ただしこの間に社内には重大な動きがあった。新規株式公開の2ヵ月前、Rubenstein氏は心臓発作に襲われる。新規株式公開に備えてRubinstein氏は遠縁(*2)から紹介されたベンチャーキャピタルとも交渉を行なっていた。Frederick R. Adler氏(同名の大学教授や作家もいるが別人である)が率いるAdler & Companyという現在も有力なベンチャーキャピタルである。

(*2) Rubinstein氏の実弟の義理の弟だそうだ。

 もっとも現在でこそ評判が良いAdler & Companyであるが、当時はなかなか強引だったらしい。Adler氏はSperry Corporationの役員だったH. Glen Haney氏をRubinstein氏の病室に送りこむ。ここでHaney氏はRubinstein氏の持つ株式を、全部無議決権株に転換する書類にサインをするように求めた。「さもないと新規株式公開が失敗する」と迫ったらしいが、もちろんそんな話は普通ありえない。

 ところが自身の心臓発作で死の恐怖におびえていたRubinstein氏は、新規株式公開のことなど考えるゆとりはなかったらしい。かくして新規株式公開が成立すると、Adler & Companyはかなりの株式を手にしており、そして新会社のCEOにHaney氏が納まった。まぁ体の良い乗っ取りだが、見事に成功したことになる。

 ちなみにその後、無事退院したRubinstein氏は1986年に退社し、今度はSurpass Corporationを設立、表計算ソフトの開発に向かう。これは最終的に1988年、Borland Quattro Proとして発売された。

 話を戻すと、CEOが交代したとはいえ、当面のMicroProの経営方針は、Rubinstein氏が以前に定めた計画に従っていた。この計画ではまず社名をWordStar Internationalとし、CalcStarやDataStarという製品を投入する予定だった。

 おそらく前者が表計算、後者がデータベースソフトで、これが実現していればOffice Suiteが完成するはずだった。社名変更以外のこうしたアイディアは、すべてHaney氏が殺すことになる。そしてこの辺りから同社の迷走が始まる。

 1984年の時点でもWordStarはまだ評判の高いソフトではあったが、そろそろ当初の勢いを失いつつあった。加えて、後発の製品が備えている便利な機能(例えばUndo)がない、といった欠点も見えてきつつあった。あいにく、もともとが天才Barnaby氏の下で作られたコードであり、しかも移植や追加機能でソースコードのメンテナンス性が極端に悪化していた。

 また根本的に改良が必要な、例えば階層ディレクトリに対応させる(WordStar 3.3の時点でも、まだMS-DOS 1.xにしか対応しておらず、階層ディレクトリが利用できなかった)といった作業も滞っていた。

 普通なら、このあたりでもう一度ゼロから作り直すというアイディアが出そうなもので、実際作り直したのだが、それはWordStarとは異なる製品だった。WordStar 2000と呼ばれた新製品は1985年に発売されたが、これはIBMのDisplayWrite4という、もともとワープロ専用機上で動いており、そこからPCに移植されたワープロの対抗製品という扱いであった。

これは比較的後期のDisplayWrite 4.0の画面

 問題はこのWordStar 2000が、操作性もファイルフォーマットもまったく互換性がなく、しかも高価(495ドル)だったことだ。なにしろファイルフォーマットに互換性がない以上、これまで作成した文章ファイルを全部捨てるつもりがない限りWordStar 2000には乗り換えができない。

 しかもWordStarの独自のキー配置(ダイアモンドカーソルを初めとした、いくつかの特徴的なもの)にまったく互換性がないのでは使いにくいことおびただしい。結局WordStar 2000の売上は芳しいものではなかった。

 ちなみにこのWordStar 2000の後で、「最初の」WordStar 4.0もリリースされているが、これはほとんどWordStar 3.3と違いがなく、おまけにMS-DOS版ではなくIBM-PC/AT版としているあたり、いろいろ制約が大きかったことを物語っている。

 ではこの頃同社の開発部隊はなにをやっていたかというと、AT&TのUNIX PCマシンへのWordStar 2000の移植である。この移植は1982年10月頃からスタートしていたが、なにしろ開発言語は当然Cになるし、システムサービスの類もMS-DOSとUNIXではまったく異なるため、こちらもずいぶん難航したらしい。

 おまけにAT&TのUNIX PCマシンそのものが短命だったこともあり、無駄にエンジニアリングリソースを費やしただけといった結果になった。

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