HDDの製造を松下寿電子工業に委託
3.5インチの市場でも莫大な利益を生む
ここからBerkeley氏とBrown氏は思い切った変革を社内でしていく。まず、これまで内製だったHDDの製造を、松下寿電子工業に委託するという決定を行なう。
HDDはある意味、市場の需要が読みにくい製品である。つまり規則的に需要が増減するのではなく、突発的に高い需要があったかと思えば、突然低調になるということがしばしばあった。
内製にすれば利益率は高くしやすいが、需要を低めに見積ると機会損失が出て、逆に高めに見積ると固定費が跳ね上がる。そこで、製造部門は外に出したほうが、多少利益率が下がっても安全、という判断を2人は下した。
松下寿電子工業は連載369回にも出てきたが、FDDの製造は世界No.1であった。ただこの時点で松下寿電子工業はHDDの製造の経験はなかった。
そこで、QuantumはHDDの設計とマーケティングおよび販売に責任を持ち、一方で松下寿電子工業は製造にのみ責任を持つ。この分業体制でQuantumは3.5インチHDDの製造体制を整えた。
この契約に向け、松下寿電子工業は1億5000万ドル近くの投資を行ない、製造ラインの95%近くを完全自動化した製造施設を構築した。結果から言えばこの組み合わせはかなり良い結果をもたらした。
確かに製造を委託することで余分なコストがかかったが、それを勘定に入れてもQuantumの利益率は向上した。というのは、内製だった頃はバカにならない率の不良品が発生しており、これを再製造し直すコストを丸々省けた分でお釣りが出るほどだったらしい。
加えればQuantumに限らず当時のHDDメーカーは非常に多くの人手に頼って製造をしており、この人件費が丸々浮いた、ということも大きかったようだ。
一方の松下寿電子工業は、HDDの製造という新しいビジネスをこれで獲得したことになる。さらに複数の顧客を相手に製造ビジネスを行なうことで、需要の増減の波をある程度吸収できるため、こちらも悪い話ではない。
ということで、やや転換に手間取りはしたものの、Quantumも3.5インチHDDの市場に対する準備が整い、猛然と製品投入を開始する。1989年のQuantumの売上げは3億9242万ドルと1986年の3倍に達し、利益も4130万ドルとなった。
ちなみにこの3.5インチの最初のシリーズがProDriveであるが、この出荷されたProDriveの40%はApple Computerが購入し、Macintosh SE/30に搭載されたという。他にSun MicrosystemsやNeXT Inc.、HPなども大口購入顧客に名前を連ねた。
その後も勢いは衰えず、1991年には売上げが10.7億ドルに達している。ちなみに引き続きApple ComputerにとってQuantumはNo.1のHDDサプライヤーであり、ほぼ同程度の数量を納入し続けているにも関わらず、1991年におけるQuantumの売上げに占めるApple Computerの割合は15%まで落ちている。つまりそれだけ、他のコンピュータメーカーからの引き合いが増えた、ということだ。
QuantumはまたHDDの設計サイクルを24ヵ月から15ヵ月に短縮、1991年だけで11もの新製品を投入している。さらに販売網を強化、ドイツとフランスでの販売代理店契約も結んで、ヨーロッパでの販売体制を強化した。
翌1992年は、売上げが15.4億ドル、利益は8470万ドルとなった。ただこのあたりでBerkeley氏とBrown氏はQuantumを離脱する。理由は明らかになっていないが、売上げが10倍になると、もはや同じ方法での経営は難しかったのだろうとは思う。
DECのディスクストレージ部門を買収
大きな転機へ
後任はCDCからやってきたWilliam J. Miller氏である。そしてCEOが変わった途端にQuantumは苦境に置かれる。まずは競合メーカーの追従で、前回のConnerや次回登場するMaxtor、そして言うまでもなくSeagateなどがその主な競合である。
またHDD業界にとって、競合メーカーの出現とは、新技術による製品ラインナップの刷新に近いものがある。1992年の場合は、Seagateが7200rpmのBarracudaを投入したことで、それまで主流だった5400rpmのHDDが「低速のバリュー向け」扱いになってしまった。
結果、Quantumは1982年の後半にいきなり売上げが急落することになる。ただMiller氏は手をこまねいていたわけではなく、直ちに製品の刷新を始めるが、この時には松下寿電子工業側も製造キャパシティーが一杯になりかかっており、迅速な転換が不可能だった。
そこで松下寿電子工業は4000万ドルを費やしてアイルランドに新しい製造拠点を構築し、ここでQuantumの欧州向け製品を製造した。
この一連の対策は1993年前半までかかったが、功を奏して1993年のQuantumの売上げは17億ドルに達した。1994年も引き続き新製品の投入に余念がなく、特に低価格向けでConner Peripheralの持っていた市場を次第に奪い取ることに成功する。
ただ逆にモバイル向けのDaytonaやGO-Drive GLS、あるいはハイエンドデスクトップ向けのMarverickなどは、一定のシェアは獲得したものの他社を圧倒するには至っていない。
1994年は最終的には21億ドルの売上げを達成したが、Seagateは同年に35億ドルの売上げと2億2500万ドルの利益を出している。ここでSeagateに追いつくために同社が考えたのが、多角化である。
この頃はDECがさまざまな部門を切り売りしていた時期であり、QuantumはDECからディスクストレージ部門を最終的に3億4800万ドルで買収する。
このディスクストレージ部門はエンタープライズ向けの高性能SCSI HDDのほか、テープドライブのビジネスも行なっていた。テープドライブというのはDLT(Digital Linear Tape)と呼ばれる独自規格のカセットを利用してバックアップを取るためのもので、初代のDLT(DLT III)では1個あたり最大10GBのバックアップを取ることができた。
画像の出典は、“Wikipedia”
ただ大容量ストレージのバックアップを取るためには、カセットが1個では足りないし、カセットの入れ替えに人手が必要なのも大変である。そこで、Tape Library、あるいはDLT Jukeboxなどという名前で呼ばれるお化けが出てくる。
例えば製品としては比較的最近のものだが、HP EnterpriseのStoreEver MSL6480のコマーシャル(下の動画)を見ていただければ、どんなものかというのがご理解いただけよう。
もっと大規模なものでは、現在はOracle傘下のStorageTekのSL8500(下の動画)や、これをさらに大規模にしたものなど、上を見ればきりがない。
この買収の結果として、Quantumはエンタープライズ向けHDD製品を製造できるようになり、これはQuantum Atlasシリーズなどとして製品化されるようになったが、それよりも急速に拡大し、かつ利益率がはるかに高いのがテープドライブのビジネスであった。
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