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ロードマップでわかる!当世プロセッサー事情 第365回

業界に痕跡を残して消えたメーカー あのDRAMメーカーに買収されたZeos

2016年07月18日 11時00分更新

文● 大原雄介(http://www.yusuke-ohara.com/) 編集●北村/ASCII.jp

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業績が悪化しMicronに買収される

 以上のように、1991年にはFortune Magazineで“America's Fastest Growing Company”(アメリカでもっとも急成長した会社)とされた同社であるが、1992年には早くも失速の傾向を見せる。

 1992年第4四半期の売り上げは4690万ドルで、1991年第4四半期の売り上げの7060万ドルから33.5%ものダウンとなり、この期だけで720万ドルの損失を計上する。理由は簡単で、競合メーカーの追い上げが厳しくなってきたからだ。

 同社の品質に対するこだわりは、1980年代のもっと小さなメーカーと比べれば確かに抜きん出ていたが、90年代に入るとすでに大会社になったCOMPAQやDELL、あるいはもともと優れた品質管理部門を持っていたDECやIBMといったメーカーが競合になった結果として、Zeosの提供する品質レベルに近いものがスタンダードになってしまい、そこでの差別化が難しくなったのが一番大きいだろう。

 こうしたことを考えてか、同社は1992年11月にMartyn Ratcliffe氏を社長兼COOとして招聘して営業力の強化に着手するものの、同社の売上は下落する一方だった。1993年と1994年の通期のレポートが見つからなかったのだが、第1四半期のレポートを見ると、なかなか悲惨な数字である。

Zeos Internationalの決算報告
  1994年第1四半期 1993年第1四半期
売上 4920万ドル 6040万ドル
粗利 -87万ドル 608万ドル
営業利益 -863万ドル -336万ドル

 ほかの3四半期は好調というわけもなく、どんどん同社は苦境に陥ってゆく。せっかく招いたRatcliffe氏は1994年1月に離職(この後、氏はDELLのヨーロッパ統括上級副社長となった)。このあたりから、業界では「Zeosは単独では生き残れないだろう」という観測記事が増えていく。

 そのZeos Internationalを買収したのはMicronである。DRAMを作っている、あのMicron Technology Inc.のことだ。

 正確に書けば、当時Micron Technoligyの子会社であったMicron ComputerとMicron Custom Manufacturingという2社とZeosが合併する形になる。

 Micron TechnologyがZeosの株の79%を、2つの子会社が10%を買収、残り11%は既存のZeosの株主に残る。

 1993年6月~1994年6月のZeosの売上は2億2910万ドル、損失は1340万ドルだったが、子会社2社は合計でおおよそ4億ドルの売上と3500万ドルの営業利益を上げており、合併によって8~9億ドルの売り上げが達成できる、というのが当時のアナリストの見解だった。

 合併後の社名はMicron Electronicsとなり、Micron PCというブランドでやはりAT互換機を販売するビジネスを継続することになった。

 当初はZeosの製造ラインを利用してMicron PCと、従来のZeosのマシンの両方を販売していたが、1996年にZeosの製品はこれ以上製造しないことを決める。

 その背景には、売り上げの急落にともない、同社の誇っていた品質がすでに確保できなくなっていたことがある。

 Micron PCはある意味Gateway 2000と似たような作り方をしており、自社で品質管理に大金を投じなくても一定の品質が保てたので、製造ラインを閉鎖しても問題はなかった。

 もっともこの時点でZeosのラインナップはノートPCに限られ、一方Micron PCはデスクトップだったため、この決定はMicronが売るノートPCがなくなる、という意味でもあったのだが。

 ただ、Gateway 2000と同じやり方、つまり基幹部品をすべて外部から調達する方法で販売する限り、Gateway 2000と同じくどこかで行き詰ることになる。

 これの打開のために全世界展開を行なったりするのもこれまた同じであるが、それ以外に怪しい方向に手を出すのもやっぱり同じであった。

 1999年、同社は現在Web.comとして知られるプロバイダであったHostcomを買収、インターネットプロバイダー業に進出する。このあたりはまだいいのだが、本業で斜め上の方向に行き始めたのが問題だった。

 以前、黒歴史でも触れたことがあるのだが、MicronはDRAM以外のメモリーも手がけている関係で、チップセットなども手がけていた。

 ただMicronのチップセットを採用するマザーボードベンダーはまったくおらず、「では自分のところのMicron PCに使わせよう」という話にどこかでなったらしい。

 このチップセットはSamurai DDRと呼ばれる。先の黒歴史のところで、Mambaというチップセットの紹介をしたのだが、MambaからeDRAMを抜いたのがSamurai DDR(より正確に言えば、Samrai DDRにeDRAMのキャッシュを追加したのがMamba)である。

Mambaの構成。対応インターフェースはSocket Aであったが、最終的に製品化されなかった

 Samrai DDRが最初に登場したのはインテルのSocket 370向けで、Copperhead(ノースブリッジ)とCoppertailの2チップ構成だったが、このCopperheadはデュアルCPUに対応している。

 ただし、デュアルCPU構成時にはCopperheadも2つ搭載され、各々のチップがメモリーバスとAGP/PCI-Xバスを出せるという変態仕様も可能となっている。またCoppertailはVIAのサウスブリッジで代用可能だったあたり、中身はVIAあたりから購入していた可能性もある。

 このSamurai DDRを搭載したマザーボードはPlatform 2000やIDF 2001などで展示されたのだが、多少構成を変えたものがMicron PCブランドでがんばって発売された。

これは2001年2月にサンノゼで開催されたIDF 2001 Springでの会場展示。Micronのブースで、このDual Pentium-IIIマシンの動作デモが行なわれていた

チップセットのアップ。Copperhead Rev-Aの表示が。実際に量産されたのはCopperhead Rev-Bだった模様

脇のモニターで展示された構成図

 ではマザーは好評だったのか? というと、これが全然だめだった。スペック上は、インテル向けのDDR-SDRAMサポートチップセットということで期待されたが、思ったほどの性能は出ず、おまけに自社チップセットということで、ドライバの不具合などのトラブル対応が長引き、コストも高くついた。

 その一方で、Micron PCの売り上げは順調に下がっていった。Micron Technologyの2000年の決算報告を見ると、このMicron PCの売り上げと損益は以下のようになっている。

Micron Technologyの決算報告
  1998年 1999年 2000年
売上 14億9760万ドル 12億3990万ドル 10億6570万ドル
営業利益 -1億880万ドル -3230万ドル -1億4550万ドル

 売上そのものは1998年などメモリー部門とほぼ同等だったのが、2000年には6分の1まで落ちており、しかもメモリー部門の利益を食いつぶす、単なる金食い虫でしかなかった。

 結局Micron TechnologiesはMicron PCのブランドを含めてMicron ElectronicsをまるごとGores Technology Groupというファンドに売却し、PCビジネスから手を引く。チップセットビジネスもこの際同時に廃止されてしまったらしい。

 余談になるが、この売却直前まで日本でもMicron Electronicsがあり、実際日本でもMicron PCを販売していた。販売するためには当然広告を打たねばならず、実際雑誌広告などを打っていたのだが、事業撤退ということで速やかにビジネスを畳む必要があった。

 この結果、雑誌の広告代金が払えなくなったため、代理店にMicron PCのハイエンドマシン2台を広告代の代わりに置いて行った、という話を筆者も聞いたことがある。

 Gores Technology Groupは社名をMPC Computerに改め、その後は株式交換の形でHyperSpace Communicationsを買収、2007年にはGatewayのProfessional Services部門を買収するなど積極的にM&Aを掛けながら事業を存続しようと努力したが、最終的には2008年11月に倒産処理手続を申請。復活はないまま消えることになった。

 Zeos創業者のHerrick氏は、1996年のMicron買収に際して自身も身を引き、代わりにHistoric Salesという戦争関連の通販ビジネスを始めている。

 これに先立つ1992年には自身でGolden Wings Flying Museumという航空機博物館を設立し、現在もオーナーとして元気そうなあたり、もともと飛行機関連がずいぶん好きだったようだ。

 現在のビジネスは、そういう意味では趣味と実益を兼ねたものという感じで羨ましい。

※お詫びと訂正:IDFの年号に誤りがありました。記事を訂正してお詫びします。(2016年7月19日)

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