写真はテキストを添えないと意味が変わってしまう
ひとまず写真である。自分も含めて人々が写真を撮って共有サービスに投稿するとき、当該の写真だけを投稿することはまずないだろう。かならずと言っていいほど、なにがしかの言葉をキャプション風に添えて公開する。それはTwitterにしてもFacebookにしてもInstagramについても同様だ。
以前別の連載でインターネットは実は膨大な量の言語が横溢するテキストメディアであるという話を書いたことがあるが、たとえ主役が写真であったとしても、そこには往々にして言葉が付随するのである。
写真というメディアは一般的に、視覚情報によって満たされた意味の揺らぎの少ない媒体であると考えられているけれども、本当のところ、それ単体ではなかなか成立しづらいメディアと言える。それはなぜか……?
対象物=被写体が極限までに絞り込まれた、つまり、意味の揺らぎを極限まで抑止した広告写真や報道写真を除いて、写真というものは鑑賞者の気まぐれな視線によって注視点(見どころ、感じどころ、笑いどころ、ツッコミどころと言ってもいい)が無数に立ち現れてしまう代物だからである。
フランスの哲学者で「恋愛のディスクール・断章」「神話作用」「モードの大系」など数多くの優れた著作を残したロラン・バルトは、遺著となった写真にまつわる思索的エッセイ「明るい部屋 写真についての覚書」の中で、撮影者が写し取ろうとしたのであろう一般的かつ平均的な意味のことを「ストゥディウム」、それに対して、撮影者の意図とは別のところで鑑賞者の心を刺し貫く写真の細部を「プンクトゥム」と呼んでいる。
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フランスの哲学者ロラン・バルトの遺著「明るい部屋 写真についての覚書」(みすず書房)。最愛の母の死をめぐる追想と写真に対する深い思索が織りなす静謐な美しい論考。亡き母の写真を整理しながら、バルトは彼女の少女時代に取られた一枚の写真に彼の中の母を「プンクトゥム」として見い出す |
たとえば、友達同士で写した集合写真は彼らの仲の良さや楽しげな時間/空間をストゥディウムとして表わすが、鑑賞者の気持ちに妙な引っ掛かりが生じるのは、写っているメンバーの一人だけが目を閉じてしまっているという間抜けさや、背景の看板が放っている異様な存在感や、全員の髪がボサボサになるほどその場に吹いていたと思われる強い風や、写真の隅に偶然写ってしまったまったく関係のないおじさんの酔っ払った表情だったり。これがプンクトゥムなのだ。
“ごく普通には単一のものである写真の空間のなかで、ときおり(といっても、残念ながら、めったにないが)、ある《細部》が、私を引きつける。その細部が存在するだけで、私の読み取りは一変し、現に眺めている写真が、新しい写真となって、私の目にはより高い価値をおびて見えるような気がする。そうした《細部》が、プンクトゥム(私を突き刺すもの)なのである。
ストゥディウムとプンクトゥムの関係(この後者が見出される場合)に、規則を定めることは不可能である。重要なのは、両者が共存するということであり、言えるのは、ただこれだけである。”
そういう意味で写真は決して「画像としてテキスト以上に多くのことを語っている」のではなく、「テキストによって多くのことが語られるのを待っている」メディアであり、決して意味の確定することのないメディアであると言える。
だから、撮影者の目論見とは関係なくプンクトゥムが多く発生する不完全な写真であればあるほど、SNSの中で多くのコメントを誘発し、多彩なコミュニケーションの生み出す確率が高いのではないか。閲覧者それぞれが自らの言葉によってその写真の意味の確定に向けて動き出すのである。
では、動画はどうだろうか?
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