平野啓一郎氏の「個人から分人へ」というパラダイムシフト
そして「個人」という塊(と思われているもの)も、ときに不整合で相矛盾する断片へとモジュール化される。これはまさに西欧において中世から近代にかけて誕生した“個人”、首尾一貫した「私」という概念の危機であり、「一本筋が通っている」「ブレない」「自分をしっかり持っている」という世俗的な美意識の動揺である。
こうしたヨーロッパ発祥の“個人”が日本に輸入されたのは明治以降であると本連載の3回目でも触れたが(関連記事)、作家の平野啓一郎氏はその著書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』の中で、旧来の個人に対して極めて柔軟かつ斬新な「分人」という概念を対置している。平野氏の分人は、上述したインターネットの不可解さを考える上でも有益なヒントをわれわれにあたえてくれる。
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作家・平野啓一郎氏の『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書)。もはや旧来の個人を前提にしては立ち行かなくなった現代の社会関係や人間関係を、「分人」の概念の提唱とともにわかりやすく分析し、新たな指針を提供してくれている |
“一人の人間は、「分けられない individual」存在ではなく、複数に「分けられる dividual」存在である。だからこそ、たった一つの「本当の自分」、首尾一貫した、「ブレない」本来の自己などというものは存在しない。”
われわれはついつい、自分も含めて人は一貫性や整合性のある存在であり、常にそうした発言や行動をしてるはずだと信じている。ときには心理学者ユングの提唱した「ペルソナ」(仮面)を被り変え、社会的に必要な役割行動を演じることがあるにしても、中核にはかならず「本当の自分」があり、いかなる発言や行動もそうした個人の価値観に裏打ちされているはずだと思っている。
しかし、いささか哲学的な問題のようになってしまうが、われわれという存在はそんなに首尾一貫しているものなのだろうか? これは本当の自分だが、あれは「ウソの自分」だなどと、明確に分離することはできるのだろうか?
それよりも平野氏が指摘する通り、私とは「分割可能な複数の分人」の集合体であると考えたほうがしっくりくるのではないだろうか?
平野氏はこう述べる。
“私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている。そして、その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。分人の構成比率が変われば、当然、個性も変わる。”
(次ページでは、「『インターネットで多い意見』の実態とは」)
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