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情報の取り扱い説明書 2015年版 第3回

発信だけでなく、受信の技術を学ばないといけない

それって勘違い? SNSの正しい認識と上手な付き合い方とは

2015年06月16日 10時00分更新

文● 高橋幸治、編集●ASCII.jp

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この記事は連載「情報の取り扱い説明書 2015年版」の3回目です。
過去の記事はこちらからご覧ください。

 前回、メディアが不可避的に持っている特質「ニュースの製造」を取り上げ、ソーシャルメディアで流れるニュースは、世界で起こったものではなく、製造されたものになりつつあるという点に言及した。

 ニュースが増える中で、われわれはどのように情報を取捨選択すればいいのか。今回は、ソーシャルメディアとはどんなメディアなのかという点にスポットを当てつつ、「情報受信の創造性」について述べていきたい。果たしてソーシャルメディアは「社会メディア」なのか。

「社会」と「世間」はまったくの別物

 中上健次の初期の短編に「黄金比の朝」(1976年)という小説がある。その中で、学生運動に血道を上げる大学生の兄が予備校生の弟に「この社会、そんなに甘くできちゃいないさ」と訳知り顔で挑発すると、弟が「社会じゃなくって、世間だろ」と嘲笑気味に切り返す場面がある。

 われわれはよく、この「社会」と「世間」を混同してしまうことが多い。混同したからと言って、別に重大な支障が発生するわけではないが、しかし、両者はやはり別物だ。

 例えば、何らかの罪を犯した人が所定の刑期を終えて社会に復帰したとする。このとき、彼(もちろん彼女でもいいのだが)はいちおう法律的、社会的には罪を償ったことになる。しかし、たぶん、社会復帰には想像以上の困難が付きまとうだろう。

 社会が制度的に許したとしても、世間は感情的に許さないからである。この世間をめぐる論考には中世史研究の第一人者・阿部 謹也氏が多くの著作で論及している。

(次ページでは、「ソーシャルメディアは一体何のメディア?」)

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