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ロードマップでわかる!当世プロセッサー事情 第274回

スーパーコンピューターの系譜 ベクトル型の傑作STAR-100

2014年10月13日 12時00分更新

文● 大原雄介(http://www.yusuke-ohara.com/

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Cray Research社に抜かれるCDC
会社を救ったのはハードディスク

 STAR-100の完成前後から、CDCは製品ラインナップを一新する。といっても名前が変わっただけという話もあるが、CDC 6600/7600はCyber 70/170シリーズとして、改めて仕様や構成を若干見直した上でいくつかの仕様違いを含めてラインナップされたほか、STAR-100はCyber 200シリーズとして再設計された。もっともシリーズといっても、Cyber 203/205の2つが発表されたものの、結局はCyber 205しか世に出ていないのだが。

 ほかに、NCRと共同開発したCyber 180シリーズ(当初はCyber 80と呼ばれていた)も追加された。このCyber 80/180は、CDC 6600/Cyber 70ラインと、NCRのNCR 605シリーズというミニコンの置き換えを狙ったものだった。

 しかし、この手の話はうまくいかないもので、1973年に始めたものの結局1976年には共同開発を解消、以後はCDCが単独で完成させた。ただこれもあまり成功したとは言いがたい製品だった。

 さらに、Cyberplusという64bit浮動小数点演算の専用アクセラレーターのような製品(といっても、1台のCyberplusの大きさはほぼCyber 180と同じで、重さは1トンとのこと)や、CDC 160の後継にあたる16bitのミニコンCDC 1700をベースにしたCyber 18、そしてCyber 1000というシステムも開発された。

 Cyber 1000は科学技術計算用ではなく、予約発注システム(同社によればコミュニケーション・システム)向けの製品であり、しかもあまり成功したとも言いにくい。

 全体的にどれもぱっとしないわけだが、その理由はCDCを飛び出したシーモア・クレイが設立したCray Researchが発売したCray-1や、その後継製品がハイエンド市場を見事に奪ってしまったから、ということに尽きる。そうなると、あとは価格で勝負や、価格性能比といった部分で戦うしかなく、どうしても利幅は少ないものになる。

 ではCDCはなにで稼いでいたかというと、HDDである。もともとはHoneywellとの共同ベンチャーという形で始めたメインフレーム向けのHDDシステムでCDCは有力な地位を築く。時期的には1970年代中旬~1980年代前半あたりまでが同社の一番華やかしい時期である。

 個人的な話であるが、筆者がこの業界に入った当時、CDCというのはHDDのベンダーだと完全に信じきっていた。当時はCDCとEagleが2大互換ストレージメーカーといった感じで、国内のマシンルームに行くと、だいたいどちらか、場合によっては両方のHDDシステムがマシンルーム中央に鎮座して、しかも結構激しく揺れていた(笑)。

 特に初期のCDC製ドライブは、プラッターの直径が14インチと大きいもので、その振動はかなり激しかった。これが1980年代になると、8インチや5.25インチに切り替わっていき、目で見てもわからない程度に振動が減ったと記憶している。

Cyber 170に14インチHDDを入れる婦人。画像はWikimedia Commonsより(http://commons.wikimedia.org/wiki/File:PAVE_Paws_Computer_Room.jpg)

CDCの創立者ウィリアム・ノリスが
10GFLOPSを目指してETA Systemsを設立

 話を戻そう。CDCそのものは、Cyber 200シリーズを最後にスーパーコンピューターの世界から遠ざかっていたが、CDCの創立者にしてCEOのウィリアム・ノリス(William Norris)はまだスーパーコンピューターに未練があったようで、1983年に同社のコンピュータ部門を独立させ、ETA Systemsを設立。1986年までに10GFLOPSのマシンを作ることを目標とする。それがETA 10である。

フロリダ州立大学にあるETA 10。画像はComputer History Museumより

 とはいえ、なにもない状態からアーキテクチャーを開発するのは大変なので、既存のCyber 205をベースにした。Cyber 205は内部回路をECL化するとともに、メモリーを半導体化、さらにString Unitの高速化など、STAR-100で問題だった部分にかなり手を入れており、STAR-100の倍の性能を実現した。倍といっても32bit演算で200MFLOPSでしかなく、10GFLOPSには遠い。

 そこでETA 10のCPUは、Cyber 205の回路をCMOS化したうえで、液体窒素冷却により100MHz駆動を目標とした。これで単純にSTAR-100の4倍の400MFLOPSになる。これを2組にまとめた(=800MFLOPS)ものが1つのノードとなり、ノードを8つ並べた(=6.4GFLOPS)ものがETA 10の構成となる。

ETA 10のCPU。画像はComputer History Museumより

 もちろんこのままでは10GFLOPSに達しない。そこで、当初は10ナノ秒で稼動させたが、これをさらに高速化させて、サイクルタイム7ナノ秒(142.9MHz駆動)化した高性能バージョンも予定されていた。こちらだとCPU1つあたりの性能は1.14GFLOPSとなり、8つで9.12GFLOPSというわけで、10GFLOPSにはやや届かないが、そう悪い数字ではない。

 ただ販売成績は芳しいものではなかった。なにが最大の問題かというと、ETA 10は8プロセッサーのシステムであるが、1986年の出荷時に、これに対応したOSがそもそも存在していない。つまり1プロセッサーしか使えないあたりがまず問題だった。

 ソフトウェアも、本来ならCyber 205と互換性があるはずなのだが(1プロセッサーの半分だけを使っていれば、ほぼ同じだったらしいのだが)、その性能を発揮させようとすると独特な記述が必要で、ところがコンパイラが対応できていなかったらしい。

 国内では、東工大がETA 10を導入したというか、日米貿易摩擦に絡んで無理やり導入させられた(*2)というのが実情に近いのだが、アメリカ本国でもソフトの開発が遅れており、導入にあたった日本CDCもソフト開発のETA 10が自社にないため、東工大に出向いてソフトを開発させてもらっていた、という話を筆者もまだ記憶している。

(*2) 一例として、1989年11月10日の第116回国会 決算委員会 第4号(関連リンク)の中で、導入に関する経緯について公明党の草川昭三議員が当時文部大臣官房長の國分正明氏と交わしている議論が、この当時の情勢をわかりやすく示している。

 ETA Systemsはこれに引き続き、30GFLOPSを目標にしたETA 30の開発を計画したが、それ以前にETA 10に起因する赤字が出続けており、結局ウィリアム・ノリスはETA Systemsを1989年に解散、CDCで吸収する形をとって幕を引いた。

 その後CDCは部門ごとに独立したり買収されたりと解体の一途を辿り、現在はCDCの情報サービス部門がCeridian HCM, Inc.として生き残っているに過ぎない。

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