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コンプガチャ規制についての考察 第3回

ユーザの顔色ではなく、政府の顔色を伺う企業はやがては衰退する

ソーシャルゲームを肯定し、楽しむガラケーユーザの声は?

2012年07月03日 09時00分更新

文● 田中辰雄

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 ゲームが単純なのも、交流がメインであり、隙間の時間を縫ってプレイされることを考えると当然である。一人で、夜中にじっくり時間をかけてプレイするゲームと比較することが自体がおかしいだろう。

 そして問題のコンプガチャについても、意外なことにプレイヤーの間にそれほどの違和感はないことがわかってくる。まず、9割以上のプレイヤーは無課金あるいは軽課金で、コンプガチャに関わらないので、関係はない。

 これら9割のプレイヤーにとっては、コンプは一部の高課金者がやるもので、彼らが得たカードが回りまわって自分たちの所に流れてくるのであるから、それはそれでよいことで、特に問題には感じない。

 では、実際にガチャを回す高課金者はどうか。彼らは高額を出してもそのカードが欲しいかどうかを考え、その上でコンプに臨んでいる。どれくらいの金額が必要かはプレイヤー同士の情報交換に出てきており、数万円必要との見当はつけている。

 またコンプガチャを回すユーザのうちかなりの割合は、過去に何度もコンプガチャを回したことがある常連であり、自分の体験からも高額であることは知っている。最初は揃いやすいが、次第に揃いにくくなることも、数万円の出費がかかることもわかっている。彼らは騙されていたわけではない。

 ただし、確率を誤認した人はその後やらなくなるだろうから、それがどれくらいなのかは現にやっている人の観察だけではわからず、別途調査の必要がある。いるとすれば友人なしでプレイしていて、かつ、初めて回したときが考えられる。

 しかし、現にコンプを回し続けている大多数の人が確率誤認しているとは思えない。そもそも一般論から言って、少数の人を1回や2回は騙せても、多数の人を何度も騙すことは難しいだろう。

 むろん、コンプを回す彼らにも不満はある。その最大のものは確率が本当に一定であるかどうかであり、とりわけ、最後の1枚がずっと出ないときにその疑念は高まる。

 コンプについての不満はこの確率が公正かどうかという点に集中しており、この点は議論されてしかるべきである。しかし、逆にいえば確率が公正でありさえすればよいようで、私の観察ではコンプ形式そのものに対する不満は、プレイヤーの間にそれほど高くなかった(*8)。

 消費者庁やあるいはネット上の批判は、確率の公正さの問題ではなく、コンプ形式そのものが消費者を欺くものであり、悪であるという見解のようである。しかし、実際のプレイヤーにはそのような見解はあまり見られない。少なくとも、やっている者と外側にいる者との間には明らかな温度差がある(*9)。

 コンプ形式はユーザを欺く悪い制度だと声高に主張するのは、ゲームをやらない外側の人なのである。

 こうしてソーシャルゲームの中に入り、それに身を寄せてみると、外側から見ておかしいと思えたことも、それなりの説明がつく話であることがわかってくる。すなわち、それなりの合理性をもっており、おかしいことはない。PCやインターネット、従来型のゲーム機に慣れた頭で考えるからおかしく見えただけである。

 私の場合、頭がリセットされるまでに3ヵ月から半年の時間がかかったことになる。

*8
コンプまでにかかる費用(価格)が高すぎるという不満はある。ただし、これは差別化商品についてはいつもついてまわるものだろう。たとえばアニメのBDが高すぎるという不満はいつもあるし、AKBのCDを何枚も買わせるのは高過ぎるという不満もあろう。特に成功したプラットフォームメーカーは高い価格付けができるので、この不満はプラットフォームメーカーにはつきものである。マイクロソフトにも、アップルにも同様の不満が出たことがある。なお、この価格が「高過ぎる」問題への最良の解決策は、複数のプラットフォームが競争することである。たとえば、ガチャはいまどこでも300円であるが、うちは200円でやりますというソーシャルゲームメーカーが現われればよい。

*9
消費者庁の事件以降、一部のユーザがコンプ形式は違法だから返金せよという運動を始める動きがある。しかし、その論拠は消費者庁が違法というから違法だというものであり、便乗的である。

(4)ソーシャルゲームを楽しむ人々

 あらためて述べれば、ソーシャルゲームのユーザは、PCとインターネットの世界とは異なる世界に住んでいる。

 ある人はトリマーで、動物の世話をしながら合間の時間でゲームをしている。自営商店などで店番をしながらやっている人は多い。体力勝負の営業で歩き回りながら移動時間にやっている人も多くみられる。トラックの運転手らしい人もいて休憩時間になるたびにアクセスしてくる。

 主婦もいて、18歳、子供にミルクをあげながらやってます、という書き込みを見たことがある。金属加工業で、いまさっき板をガンガン打っていたので携帯ボタンがうまく押せませんという人もいた。強プレイヤーだった人がこれから6ヵ月休みますというのでどうしてかと思ったら、遠洋漁業で太平洋上に半年出るのだということもあった。

 彼らがPCとインターネットに詳しくないことは言葉の端々から確認できる。たとえば、カードの一覧情報は、数少ないPCユーザ有志の手でネット上に置かれているが、それを教えると「PC使えないし~」という答えが返ってくる。

 あるいは、今回の消費者庁の規制によるコンプ停止についても、コンプが無くなるらしいよ、という噂話は広まるものの、それが消費者庁の規制のためであると知らない人が多い。PCとインターネットに親しんでいれば、停止は消費者庁の規制のためであることはほぼ周知であろう。それを知らないということは、彼らが普段からPCとインターネットに親しんでいる人ではないことを示唆する。

 しかし、PCとインターネットに親しんでいなくても、彼らも広い意味でのネット世界の住人であり、仮想世界で楽しむ術を知っている人たちである。ソーシャルゲームの楽しみ方は色々で、挨拶と日常のやりとりのようにTwitter的に使う人もいれば、単純にゲームを楽しんでいる人もいる。

 ゲーム自体の楽しみ方もいろいろで、単なる暇つぶしから、カードを集める楽しみ、強くなる楽しみ、友人と助けあったり、競い合ったりする楽しみなど人それぞれである。PCとインターネットに慣れ親しんだ我々が知らなかっただけで、ソーシャルゲームにはそれなりのユーザがおり、それなりの楽しみの世界が広がっている(*10)。

*10
似た世界として、PC上のオンラインゲームとmixiやFaceBookなどのSNSがある。交流の楽しみという点では似ているが、ソーシャルゲームはそれよりずっとカジュアルで軽いという特徴がある。携帯画面でやり取りされる情報量は少ないため、深い関係に入り込みにくく、いわゆるネトゲ廃人やmixi疲れのような現象を引き起こしにくい。リアル重視が基本姿勢で、リアルが忙しくなれば遠慮なくリアルを優先して良いという空気があるのも特長であろう。PCとインターネットは日常から離れ、特に夜に一人で深く入り込む世界であったが、携帯電話というのは日中の活動時間の隙間時間に埋め込まれた機器であり、それを使いこなしていた人々が作り出した世界と考えれば自然な結果である。

 そして、いま彼らはコンプガチャ規制という外部からの攻撃によって楽しみを奪われている。コンプガチャによってではない。コンプガチャの“規制”によってである。コンプガチャが禁止されたことで、これまで無課金者だったものからも課金せざるを得なくなり、市場は縮小の危機にさらされている。

 ゲーム内での交換は制限され、課金しなければ楽しめなくなり、無課金ユーザはゲームを続けるのが苦しくなっている。もし無課金ユーザが離れれば高課金ユーザの楽しみも減少する。この状況はコンプ形式のために生じたのではない。コンプ形式が禁止されたために生じたのである。

 そして、彼らはこれを不満として訴える術を持たない。ソーシャルゲームのユーザはPCとインターネットの世界の住人ではないので、ブログや投稿などネット上の情報発信手段を持たない。既存の雑誌メディアなどは無論取り上げないであろう。

 世論形成の力という点で、PCとインターネットのユーザはすでに強者であり、これに比べてソーシャルゲームのユーザは圧倒的に弱者である。彼らの声はどこにも届いていない。誰かが彼らの声を届ける必要がある。私が、学問的検証を待たずにこの一連の文章を書くに至った動機のひとつは、彼らの利益を守る必要があると考えたからである。

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