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コンプガチャ規制についての考察 第3回

ユーザの顔色ではなく、政府の顔色を伺う企業はやがては衰退する

ソーシャルゲームを肯定し、楽しむガラケーユーザの声は?

2012年07月03日 09時00分更新

文● 田中辰雄

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(2)異質ゆえの不信と疑惑

 ソーシャルゲームのユーザ層を見ると、従来型の携帯電話、いわゆるガラケーユーザが圧倒的であると言われる。最近ではスマホユーザも増えてきたが、これはキャリアがガラケーからスマホに急激に切り替えためで、ユーザの主体はガラケーを愛用してきたユーザと考えてよい(*3)。

*3
ゲーム自体もガラケーに最適化されている。大半のゲームはスマホ対応したが、もともとがガラケーを前提としたインターフェースなので使い勝手はあまりよくない。

 そして、彼らはパソコンをあまり使わないと思われる。インターネットへのアクセスもガラケーに限られていれば、一般のブログやネット上の議論を参照したり、発言したりすることもない。IT業界人の典型例は、パソコンからあるいは最近ではスマホからインターネットにアクセスして活発に議論する人たちであるが、ソーシャルゲームのユーザはそういう人たちとは重ならないのではないか。

 私事で言えば、ソーシャルゲームについての研究を始めようと思ったとき、身近に体験者がいないのに驚いた。

 IT産業を主たる研究対象としているため、Skype、Facebook、スマホ、Kindle、次々に登場するIT業界の新製品・新サービスには、必ず熱心なユーザが身近に何人もおり、彼らからのヒアリングが出発点になった。ゲームについても据え置き型からPCオンラインゲーム、携帯型ゲーム機など新展開があるたびに身近にユーザがたくさんいた。

 しかしソーシャルゲームについてはそれが見つからない。新しいものは若い人のほうが知っていることが多いので学生に尋ねたが、それでも見つからない。大学での私のゼミはIT産業に特化しているので、パソコン、インターネットあるいはテレビゲームに詳しい人たちが集まってくるが、その中に一人もソーシャルゲームの熱心なユーザがいないのである(*4)。

*4
より正確に言うと、今回問題になっているグリー、DeNAなどのソーシャルゲームを携帯電話でプレイするユーザがいないという意味である。mixiをプラットフォームにしたソーシャルゲームをパソコンでプレイするユーザはもちろんいる。

 これはかつてない事態である。ソーシャルゲームの主たるユーザはパソコンとインターネットの世界の住人ではない。彼らは我々とは異なる世界に住んでいる。

 そしてソーシャルゲームのビジネス自体も、パソコンとインターネット世界の住人には異質で、理解しがたいものであるという事情があるのではないか。

 なによりその高収益が謎である。インターネット上のサービスは無料が基本であり、マネタイズが難しい。無料の間は繁盛しているように見えたがわずかでも有料化するとユーザが逃げていくのがこれまでの経験則であり、新聞も雑誌も、情報サイトも、ゲームサイトも、そしてSNSも課金に苦しみ続けた。

 現在のところ、収益の基本はユーザへの課金ではなく広告モデルやユーザ情報の利用であり、課金はできたとしても最高でも月に数百円止まりである。これから考えると、月に何万円も払う人がいるというソーシャルゲームの世界は異常であり不可解である。

 ちなみにPC上でのソーシャルゲームに似たサービスにmixiやFacebookなどのSNSがあり、そこでもソーシャルゲームに似たゲームが提供されているがほとんど収益を生んでいない。なぜDeNAとグリーの二社のみが、圧倒的な高収益をあげるのか。それがよくわからない。PCとインターネットの住人にとってソーシャルゲームの高収益は不可解極まるのである。

 とりわけ、既存のゲームを開発してきた人にとっては不可解度が強まる。ソーシャルゲームは既存ゲームに比べて著しく単純であり、ゲームとしての深みや面白みに乏しい。カードを揃えてひたすらクリックするのみである。

 既存のパッケージ型のゲームでは、入念に世界観を構築し、登場人物のキャラクターを掘り下げ、ストーリーを練り、戦略性を加え、3Dなど高度なグラフィックを駆使してユーザをゲーム体験に誘おうとする。そこには感動や爽快感があり、ある種の芸術性すら見られる。

 ところがそのゲームが8000円程度でもなかなか売れないのに、カードを出し合うだけで他には何もないソーシャルゲームに数万円も払う人がいる。既存ゲームの開発者としてはなんとも割り切れない思いをしても不思議ではない。

 また、PC上にもオンラインゲームがあり、アイテム課金などでソーシャルゲームと一部似た構造を持つが、高度なグラフィックや世界観の作りこみをしても数万円もの課金に成功した例はなく、多くは低収益である(*5)。

*5
日経新聞電子版に掲載された新 清士氏のコラムでは、アメリカの例でも、PC上のソーシャルゲームでも本格的に作りこまれたものがあまりユーザを集められずに苦戦していると書かれている(関連サイト)。

 「なぜ、圧倒的なクオリティーを持つ既存ゲームが売れず、面白くもなんともないソーシャルゲームに人は数万円も出すのだろうか。何かがおかしい。そこには何かからくりがあるのではないか?」

 高収益をあげるソーシャルゲームには、このような疑問が潜在的にはつきまとっていたと考えられる。

 異質な人がよくわからない方法で高収益をあげ、自分たちを抜き去るとき、人は彼らが何か不正なことをしているという疑惑を抱きがちである。かつて、日米摩擦華やかなりしころ、日本は何か不公正なことして高いパフォーマンスをあげているというのは、アメリカ人に受け入れやすい説明であった(*6)。

*6
たとえば日本企業は政府から補助金を受けて輸出をしているというのは俗耳に入りやすかった。今日となっては、これらの議論が誤りであったことは誰の目にも明らかである。

 同じように、ソーシャルゲームは違法なことをしていたから高収益をあげていたという説明も受け入れやすい。「そうか、彼らは違法なことをして儲けていたのか、それなら納得できる」。

 コンプガチャ規制について、その論拠や意味についてあまり深い考察がなされず、支持する声が大勢になったのは、このような納得できるという感覚があったからではないかと思う。すなわち、コンプガチャ規制は、潜在的な疑問に見事に合致した(かのように見える)解答を与えたがゆえに、誰も疑問を挟むことなく受け入れられてしまったのであろう。

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