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日本のアニメーションを代表する監督5人、杉井ギサブロー監督、りんたろう監督、出崎統監督、高橋良輔監督、富野由悠季監督が広島に集結した!

五大監督かく語りき……「私が手塚治虫から学んだこと」

2008年09月02日 20時00分更新

文● 柿崎 俊道

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虫プロダクション時代の手塚治虫先生の印象

片山
 5人の監督にさっそく質問をさせていただきます。クエスチョン1でございます。手塚治虫先生は皆さん、ご存知の偉大なクリエーターであるわけですが、虫プロ時代の手塚治虫先生の印象は? 思い出を含めて、お聞かせください。まず杉井監督からお願いいたします。

杉井ギサブロー監督

杉井ギサブロー監督。1940年静岡県生まれ。。代表作は「銀河鉄道の夜」

杉井ギサブロー
 はい。僕が手塚先生とはじめてお会いしたのは20代の頃です。みんな、そうですね。20代のはじめだったんです。手塚先生のことは小学校の頃からファンでしたから、雲の上の人という感じで、年齢ということを考えたことがなかったんです。最近、すごく思うのは、冷静に考えると先生はまだじつは30代だったんですよね。30代の若者が20代の若者を集めてスタートしたのが虫プロダクションだということで、非常に今更ながら、びっくりしています。それがはじめての出会いでした。
 「鉄腕アトム」はテレビというもので、30分のドラマをアニメ化するという世界ではじめてのものだと思うんです。そういう仕事を先生とつきあいながら、我々が鍛えられたのはエンタテインメントというのはチャレンジだということです。ちょうど多感な年齢の時に、常にエンターテインメントというのはチャレンジしていないと古びてしまう。同じことを繰り返すのではなくて、常にチャレンジしていく。一番一緒に仕事をしていて教わったことだと思っています。

片山
 ありがとうございました。それではりんたろう監督、お願いいたします。

りんたろう
 えー、今、杉井がいったこととほぼ僕は手塚治虫に対して同じ印象を持っています。ちょっと別の印象からいいますと、確かに偉大な手塚治虫という漫画家なんですけど、鉄腕アトムをはじめるにあたってはほとんど寝食を忘れて一緒になって仕事をしたチーフという形で、じつは非常に僕はそういう思い出が強いんです。
 で、これはぜんぜん仕事とは関係ないのですが、一緒になって動画机を並べて、先生が横にいる時に何度も感じたことなんですけど、仕事をしていると地震が起きたように机がガタガタガタガタ揺れるんですよ。それはなぜかというと、手塚さんはノってくると貧乏揺すりをするというのがひとつありまして。テンションが上がってくると、非常にやる動作だな、と思って。これは大きな印象でしたね。それともうひとつは音楽というものに対する造詣が深い方でした。主にクラシックですけどね。朝からとにかく絵コンテを描きながら、ベートーベンの第五をかけるというのが、非常に僕にとっては印象に残っています。以上です。

片山
 ありがとうございました。続きまして、出崎統監督、お願いいたします。

出崎統
 りんたろうさん、杉井さんのお話を聞くと、僕なんかはとってもうらやましいなあ、と思うんですよね。僕なんかは手塚治虫に憧れて、自分も漫画家を目指して挫折して。どうしようかと思った時に、偶然、虫プロダクションができて。だから、僕にとっては先生というのは、小さい時から憧れというか、次元が違う感じでした。実際に虫プロに入って、先生が目の前にいらっしゃったとしても、こちらからアクションを起こすことはまったくできなくて……、今思えば本当に残念なんだけど、思い出のひとつでも作っておけばよかったな、と思ったんだけど(笑)。(印象は)本当に小さい時から見ている先生のまんま。今思い出しても、そのまんまですね。
 『鉄腕アトム』の絵コンテを描いて、一度、先生にチェックをしていただいた時に、「出崎くん」と――僕にはどういう意味だったのかな、と思うけど「エンターテイメントを忘れないで」という風にいわれて。僕はどちらかというと暗い話が好きだったものですから……。それから、ずっとエンターテイメントって何だろう、と思いながら今まで来てしまった感じです。以上です。

出崎統監督

出崎統監督。1943年東京都生まれ。代表作は「あしたのジョー」「劇場版AIR」

片山
 ありがとうございます。高橋良輔監督です。お願いいたします。

高橋良輔
 僕らの世代は手塚先生のファンで別世界の人だと思っていました。一度社会人になりまして、それから虫プロの試験を受けて、えー、ま、手塚先生にお会いしたんです。その時に一番最初に思ったのは「本物だぁー!」ということですよね。「本物がいる!」という(笑)。
 僕にとっては神様のような存在だったんですけど、一緒に仕事をしていくうちに、ちょっと年上のただのおじさんにどんどんなっていきました。あの頃は徹夜というのは当たり前で、自分が徹夜で疲れて倒れて、床に寝ている。動画机というのは足を置く横木があるんですが、そこを枕代わりにして寝ていると、ふと気が付くと何か圧迫感がある。手塚先生がクッションを置いて、やはり同じように寝ている。……手塚先生と添い寝をしちゃった(笑)。ですから、どんどん何か、仕事はものすごいやるんですけど、何か普通のおじさんになってしまって。
 そんな手塚プロダクションというのは高田馬場にあるんですが、自分もスタジオを高田馬場に持っていた時期がありまして、(手塚治虫は)ちょっと馬場の先輩なんですね。近所の先輩という形で、たまに高田馬場の坂道などで会うと気軽に声をかけていただいて、ますます、おじさん度が強くなりました。
 そのうちに手塚先生がお亡くなりになられて、逆に日を追う毎に、手塚先生の偉大さ、いろんな足跡が自分のなかに積み重なっていって。やはり、自分が生きて出会った本当に一番偉大な人が手塚先生だったんだな、という思いが今、一番強いです。

片山
 ありがとうございます。お待たせいたしました。富野監督、お願いいたします。

富野由悠季
 この順番で並んでいるということは、僕は虫プロに入ったのは、一番の後輩なんです。ということは、時代的に4人の印象とだいぶ違いまして。
 『鉄腕アトム』を制作して2年目なのだから、(手塚治虫は)漫画家であろうが何であろうが、社長であるのだから、社長やってみせてくれなきゃ困る。ということで、労働組合を結成しまして、手塚先生と団体交渉をすることを何とか要求したんですが、ろくに出てこない困った社長でした。それが僕の一番の印象です。

―― 会場笑い

富野
 今、聞いたとおり、所詮手塚治虫は漫画家なんだから。漫画を描き、アニメーターの真似事をやっている。それが社長であるわけがない。社長であるわけがないと(僕が)実感したのは「こんな会社にいたらはやく制作進行ではなくて、演出にならないとギャラが上がらない」ということで猛烈に頑張りまして、りんたろうさんの目を盗みながら、絵コンテを切っている時でした。半年後に手塚さんに呼ばれて「演出にならない?」といわれた時は、あ、この人は漫画家でありクリエイターであり、僕が小学校の時に尊敬していた先生で、社長ではなかったんだと知ったのが、僕の印象です。

―― 会場、再び笑い

片山
 富野監督からは人情話を聞かせていただきました(笑)。

手塚
 私から多少補足をさせていただきますと、虫プロダクションというのは当時、手塚治虫の自宅の隣に隣接しておりました。正確にいうと庭続きでつながっています。ひとつの土地の中にあったんですね。富野さんが仰る通り、これは会社ではあったんですけども、なんというか大きな家族がそこにいるというか、一種の運命共同体のような雰囲気がありました。一応、虫プロダクションという名前はあるんですが、今にして思うと、ものすごく大きな手塚治虫という名前の運命共同体に皆さんは参加していたんじゃないかなあ、と。家族という言葉は変ないい方なんですが。皆さん、ひとりひとりが今やもう巨匠なんですが、みんな手塚治虫の息子であって、僕なんか一番最後のどうでもいいような息子という(笑)。そういうような印象を僕はずっと今でも引きずっております。




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(次ページへ続く)

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