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科学技術振興機構の広報誌「JSTnews」 第36回

【JSTnews10月号掲載】特集1

手軽な尿検査でがんリスクを判定。「マイシグナル」の仕組みとは?

2025年10月08日 12時00分更新

文● 本橋恵一 写真●島本絵梨佳

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 細胞が放出する顆粒(かりゅう)状の物質である「エクソソーム」は、細胞間の情報伝達などさまざまな役割を持つことがわかってきた。東京科学大学生命理工学院の安井隆雄教授は、尿中に含まれるエクソソームを捕捉し、そこに含まれる特定のマイクロRNAを解析してがんのリスクを検査する技術を開発。小野瀨隆一代表取締役(CEO)とスタートアップのCraif(クライフ)を共同創業し、この技術を事業化した。同社が開発・販売する「マイシグナル」は、医療機関や一般企業、ドラッグストアへの導入だけでなく、個人向けのオンライン販売も進むなど、健康社会実現への貢献が期待される。

細胞からの「手紙」読み解く
がん転移への関与が明らかに

 細胞から分泌される直径約40~200ナノメートル(ナノは10億分の1)の顆粒状の物質である「エクソソーム」は、細胞が廃棄物を脂質の膜で包んで排出したものだと考えられてきた。しかし近年の研究により、表面の膜たんぱく質が細胞取り込みの選択性を決め、内部にマイクロRNAなどの核酸が存在し、細胞間や個体間、生体システム全体の情報を伝搬していることがわかってきた。

「エクソソームの脂質膜が『封筒』だとしたら、その中にあるマイクロRNAは『手紙』です」と東京科学大学の安井隆雄教授は説明する。マイクロRNAはかつて、わずか22~25の少ない塩基しか持たず、たんぱく質を作らないため、役に立たないものだと考えられてきた。ところが、2024年にノーベル生理学・医学賞を受賞したビクター・アンブロス博士とゲイリー・ラブカン博士が、マイクロRNAはメッセンジャーRNAが作るたんぱく質の発現を調節することで、生物の成長に非常に重要な役割を果たしていることを見いだした(図1)。現在までにヒトには2000種類以上のマイクロRNAが見つかっており、さまざまな情報が日々、細胞間で伝達されている。

図1:DNAの遺伝情報がメッセンジャーRNAに転写され、たんぱく質が作られる一連の流れは「セントラルドグマ」と呼ばれる。一方、マイクロRNAはたんぱく質を直接作るのではなく、合成を調節することで、生物の成長に重要な役割を果たしている。

 マイクロRNAは、がんの発生や進行、転移の仕組みにも大きく関係している。がん細胞が放出するエクソソームの特異なマイクロRNAは、体内の他の組織に届き、がん細胞が転移する前に、転移先の環境を変化させる。

 こうしたマイクロRNAの特徴に目を付けた安井さんは、尿から高効率にエクソソームを捕捉してマイクロRNAを抽出する技術を開発し、Craifを小野瀨隆一さんと共同創業した。同社が提供する、尿で高精度ながんリスク検査ができるサービスは現在、1500を超える医療機関や企業に導入されており、全国のドラッグストアやオンラインでも販売されている。

血液の代わりに尿から採取
効率の良い分離方法が課題

 安井さんは、学生時代からナノ構造体を使った新しい分析化学や生体関連分子の制御技術に興味があり、大学院卒業後は、クリスマスツリー状のナノデバイスを利用したDNA解析に取り組んでいた。研究を進める中で、当時国立がん研究センターに在籍していた、東京医科大学医学総合研究所の落谷孝広特任教授の研究に注目し、ナノデバイスを利用してエクソソーム中のマイクロRNAを捕捉して解析できれば、がんの早期発見ができるのではないかと考えたという。

 エクソソームを採取するにあたって、最初は血液を使うつもりだったと安井さんは話す。「実験をお願いした学生が、血液の実験に抵抗があると言ったので、試しに尿で実験してみたところ、想像以上に良いデータが取れました」。後に、血液中のエクソソームも分析したが、尿の方が良い解析結果となったという。何より、尿による検査は血液に比べて気軽にできることが大きなメリットになる。

 しかし、ここで課題となったのが、いかにしてエクソソームを効率的に分離するかだった。尿中に含まれるエクソソームは血中に含まれるエクソソームよりも少ないといわれている。エクソソームは密度やサイズ、表面電荷などに特徴があり、従来は遠心力を利用して分離したり、凝集を利用して分離したりしていたが、捕捉効率が30パーセント程度であるのが障壁となっていた。

高捕捉効率のナノワイヤ開発
出会って2ヵ月で共同創業へ

 安井さんは、エクソソームの特徴のひとつである表面電荷に着目し、酸化物ナノワイヤを用いて尿の中からエクソソームを分離することを考えた。体液に近いpH7の条件下で、表面が負から正に帯電するようにナノワイヤの表面酸化物の材料を酸化ケイ素、酸化チタン、酸化亜鉛と変えて試したところ、表面が正に帯電する酸化亜鉛ナノワイヤが最も捕捉効率が優れていることがわかった。

 さらに、酸化亜鉛ナノワイヤの結晶成長時にアンモニアを添加するとナノワイヤの形態が変わることを利用し、エクソソームを効率的に捕捉できる形態を決定した。こうして作製した酸化亜鉛ナノワイヤをマイクロ流路と組み合わせて、エクソソームを網羅的に捕捉するナノデバイスを開発(図2)。99パーセントの効率でエクソソームを捕捉することを可能にした。

図2:安井さんが開発したデバイス。尿をデバイスに導入すると、ナノワイヤがエクソソームを捕捉して、マイクロRNAを抽出する。抽出したマイクロRNAに対して遺伝子の発現レベルや変異を調べる「マイクロアレイ解析」をすることで、がんを検知する。

 このデバイスの開発はJSTのさきがけで実施し、2017年12月に論文を発表した。翌年の1月にはすぐにJSTのスタートアップ支援の部署や、ベンチャーキャピタルのANRI(アンリ)から、スタートアップ設立の打診がきたという。安井さんは、自分にはCEOはできないと断っていたが、3月に今度はスタートアップのCEOをしたいという人材を紹介された。それが小野瀨さんだったという。意気投合した安井さんと小野瀨さんは、2018年5月にCraifを共同創業した。初対面から創業まで2ヵ月足らずという異例のスピードだった。

設立4年後にキット販売開始
マイクロRNAのAI解析を実現

 安井さんと出会う前、小野瀨さんは、自分が起業するにあたり何をメインに据えるか考えた時に、人類の進歩に貢献し、社会にインパクトを与えられるテーマは「がん」であると思い至ったという。祖父母をがんで亡くしたことも事業展開の後押しになった。「ベンチャーキャピタルのANRIを通して安井さんに会った時に、この技術が社会を変えると直感しました。そこからは、設立に向けてあっという間に時間が過ぎていきましたね」。設立にあたってはANRIのほか、JSTの出資型新事業創出支援プログラム(SUCCESS)も出資した。「JSTが出資に参加してくれたことで、大きな安心感を得られました」と小野瀨さんは振り返る。

 しかし、苦労は多かった。「研究室で成功した技術を一般向けのサービスとして提供することは、おいしい飲食店の秘密のレシピを教えてもらって、それを自宅のキッチンで再現することが難しいことに似ています」と小野瀨さん。熟練した研究者の手技といった、言語化されていない作業のコツを研究者以外の人が再現できるような仕組みを作ることに苦労したという。

 さまざまな苦労を乗り越え、会社設立から約4年後の2022年2月、がんリスクを検知して早期発見につなげる検査キット「マイシグナル」シリーズの製品の提供が始まった。現在、マイシグナルシリーズは4種類あり、特に「マイシグナル・スキャン」(図3)は、尿中のマイクロRNAを、人工知能(AI)を用いた機械学習で解析する世界初の技術だ(図4)。早期発見が難しいとされるすい臓がんや卵巣がんを含めて最大10種のがんのリスクを検査できる(図5)。

図3:販売中の「マイシグナル・スキャン」。中に返送用の箱も入っており、自宅で尿を採取し、検体を送るだけで、検査が完結する。

図4:「マイシグナル・スキャン」における検査工程の全体像。安定的な検査を実現するために、大きく4つの工程に分けて検査を実施している。

図5:総合結果表のサンプル。全部位の検査結果を一覧化し、色分けとアイコンで、現在のリスクと行動指針を直感的に把握できる。同時に送付される結果表では、がん種ごとに関連するマイクロRNAの測定結果をグラフや数値で解説している。

誰もが天寿を全うする社会
医療で人生の機会を平等に

 Craifの今後の課題のひとつは、子宮頸(けい)がんや子宮体がん、肝臓がんなど、検査可能ながんの種類を増やすことだ。がんに限らず、認知症や糖尿病のリスク判定にも展開したいと小野瀨さんは語る。いずれはトイレにマイシグナルを実装することで、健康リスクの判定ができる「スマートトイレ」も実現するかもしれない。また、海外展開の準備も進む。米国ではバイオテックのスタートアップのエコシステムが構築されており、人材も豊富だ。C raifでは海外オフィスの拡張も進めていて「人種に合わせたアルゴリズムの開発など、販売地域に合わせた改良は必要ですが、既にベースとなる製品はできているので、ゼロからのスタートではないことが強みです」と早期のサービス開始を目指す。

 安井さんは、新たにセルロースナノファイバーを利用したエクソソーム捕捉による研究を進めている。がん患者の全身の組織からナノファイバーでエクソソームを採取し、臓器ごとのマイクロRNAを測定することで、がんの原発に近いマイクロRNAを探せる可能性がある。こうした研究を通じて、がん細胞の性質や行動パターンがより深く理解できれば、医療はより効果的になっていくだろう。

 「人々が天寿を全うする社会」をテーマに掲げるCraif。社名は、長寿の象徴である鶴(Crane)と人生(Life)の2つの言葉を重ねているという。現在の医療は、症状が出て初めて病院に行き、病気の診断が出てから治療を開始する形がほとんどだ。しかし、症状が出る前にも体内では必ず変化があるはずで、その時点で病気の可能性を指摘できれば、先手を打てるはずだ。「医療によって人生の機会は平等になります。がんを克服すれば、誰もが長生きできる世界になるでしょう」と小野瀨さんは展望を語った。

安井隆雄さん(写真左)「科学には、誰もが幸せに生きられるようにする力があります。どんな研究もスタートアップのシーズになり得ますし、起業を経験することは研究にも生きています。起業を通じて研究者だけではなく、広報や営業などさまざまな職業のプロフェッショナルと接することで、自分自身の刺激にもなります」/小野瀨隆一さん(写真右)「日本は本来、技術立国であり、ディープテックの国です。アカデミアに対する待遇は必ずしもいいとは言えませんが、資源に乏しい日本ではディープテックで突き抜ける企業が出てくることが未来を明るくすると信じています」

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