「入れ歯が1か月待ち」“歯科サプライチェーン崩壊”に製造業DXの知見で挑む
歯科医療・歯科技工所業界のデジタル化を推進するエミウム株式会社
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“技工所支援”から“歯科医療全体のインフラ構築”へ
「エミウム クラウド技工」は当初、小規模な技工所を主なターゲットに想定していたが、実際には大手・中堅の歯科技工所からの問い合わせが多いという。
「既存のシステムがクラウド非対応だったり、サポートが終了間近だったりと、現場には意外な課題が多く残っていました。切り替えニーズとクラウド移行の波がちょうど重なって、むしろ大手からの反響が大きい状況です」(稲田氏)
「エミウム クラウド技工」は現在、歯科医院側には無料で提供されており、業界全体での普及を後押しすることで、共通インフラの構築を目指している。
「人の歯は、生活の質に直結します。歯を失った瞬間に閉じこもり気味になり、十分な食事がとれずに衰弱してしまう――そんな話も珍しくありません」と稲田氏は語る。
現在、歯科技工士の不足により、入れ歯の完成までに1~2か月待ちという状況も珍しくなく、歯科のサプライチェーンはすでに機能不全に陥りつつある。
「これは非常に大きな社会課題ですが、私自身もカブクで樋口先生と出会うまでは、その深刻さに気づいていませんでした。そもそも“歯科技工”という仕事の存在さえ、当時は知りませんでしたから」
歯科領域は、医療と製造の両面にまたがる専門性が求められる一方で、投資家からの理解も得にくい。スタートアップとしても、ソフトのみだけではなく技工としてのハードが関係するため、気軽に挑戦できる分野ではない。
「だからこそ、製造業とベンチャーキャピタル、両方の経験を持つ自分が取り組むべきテーマだと感じました。歯科医療の課題はまだまだ山積しています。一つひとつの課題に丁寧に向き合いながら、全体としての仕組みもあわせて変えていきたいと思っています」
次なる展開は、歯科サプライチェーンを含めた「ビッグデータ活用」
今後の展開として期待されているのが、ビッグデータの活用だ。
「医療分野ではビッグデータの取り扱いに関するガイドラインが整備されつつあります。私たちは、これを参考にしながら歯科領域にも応用していこうと動いています。現在、医療全体でリポジトリ(患者の診療記録、診断画像、臨床試験データ、研究成果などの医療データを一元的に収集、保存、管理し、必要に応じて共有や分析が可能となるシステム)の整備が進められていますが、歯科の場合は診療だけでなく、技工物の製造を含むサプライチェーン全体が関わるため、包括的なデータの整備が不可欠になります」と稲田氏。
例えば、「このような症例に対して、どのような処置を選択するか」を判断し、治療計画を立て、それに基づいて補綴物の設計を行う――という一連のプロセスには、豊富な経験と知見が求められる。具体的には、インプラントにするのか入れ歯にするのか、材料は何を選ぶのか、といった判断が必要で、現場では医師の経験に大きく依存しているのが現状だ。
「特に若手の歯科医師の場合、技工指示書に細かい指定を書かずに、熟練の技工士に設計を一任するケースも少なくありません。しかし、電子カルテのデータと歯科技工所のサプライチェーン情報を組み合わせて活用できれば、診査診断の支援から治療計画、歯科技工指示の設計支援まで含めた仕組みが構築できるはずです」と稲田氏は展望を語る。
すでに欧米では、症例データを学習したAIによる虫歯の自動検出(う蝕診断支援AI)や、治療計画の立案を支援するAIが実用化され始めている。エミウムでも、東京医科歯科大学と連携し、入れ歯(デンチャー)の設計を支援するAIの開発を進めているという。
職人技術を武器に、海外展開へ
今後、エミウムは海外展開も視野に入れている。
「技工の技術力において、日本は世界でもトップクラスです。例えば、歯科技工士の林直樹氏がロサンゼルスでハリウッドセレブの歯を手がけているように、優れた日本の技工所が海外に進出すれば、今の数倍、数十倍の収益を上げられる可能性があると思います」と稲田氏。
自動車など他の製造業ではデジタル化・自動化が進んだ後も、日本のクラフトマンシップは海外で高く評価され続けている。歯科技工もまた、職人の技をベースとしながらデジタルと融合させることで、世界で通用する産業へと成長できる――稲田氏の目にはそうした未来が映っている。
「今は、歯科技工所という“サプライチェーン側”からアプローチしていますが、今後は“デマンドチェーン”である歯科医療の現場も含め、生産性をトータルで高めていく。それが、私たちが目指す“新しいインフラをつくる”というビジョンの中核です」
歯科技工士の不足という社会課題に向き合いながら、製造業のサプライチェーンDXで培った知見を活かし、歯科医療という社会インフラの再構築に挑むエミウム。製造業由来の視点とテクノロジーを融合させた新たなアプローチは、分業のすき間をつなぎ、業界全体の持続可能性を高める一手となるかもしれない。
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