新横浜ラーメン博物館のウラ話 第32回

ラー博にまつわるエトセトラ Vol.27

あの銘店をもう一度“94年組”第3弾 16年ぶりに復活「げんこつ屋1994」

文●中野正博

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 みなさんこんにちは。2024年の3月に迎える30周年に向けて、これまで実施してきましたさまざまなプロジェクトが、どのように誕生したかというプロセスを、ご紹介していく「ラー博にまつわるエトセトラ」。

 2022年7月より、過去にご出店いただいたおよそ40店舗の銘店を2年間かけて、3週間のリレー形式で出店していただく「あの銘店をもう一度“銘店シリーズ”」と、2022年11月7日より、1994年のラー博開業時の8店舗(現在出店中の熊本「こむらさき」を除く)が、3ヵ月前後のリレー形式で出店する「あの銘店をもう一度“94年組”」がスタートしました。おかげさまで大変多くのお客様にお越しいただいております。

前回の記事はこちら:
ラー博にまつわるエトセトラ Vol.26 あの銘店をもう一度第19弾 京都最古参の中華そば専門店 京都「新福菜館」 

過去の連載はこちら:新横浜ラーメン博物館のウラ話

 あの銘店をもう一度“94年組”の第3弾は、16年ぶりに復活する「げんこつ屋1994」です。

 出店期間は2023年7月20日(木)から10月22日(日)です。

「げんこつら~めん」

 94年組のコンセプトは「94年当時の味の再現」。“94年組”の第3走者は、「げんこつ屋」さん げんこつ屋としては2007年に幕を閉じているため、16年ぶりに復活します。

 創業者であり父親の想いを息子である二代目が伝えます。

 げんこつ屋が産声を上げたのは1980(昭和55)年4月。場所は新高円寺駅。僅か6坪、カウンターのみ13席の小さなお店からのスタートでした。

げんこつ屋新高円寺本店(1993年撮影)

 創業者の関川清さんは、幼少のころから将来は何かしらの商売をしたいと思っていたようで、1968(昭和43)年、神奈川県の戸手町で弁当店を開業。

創業者の関川清さん

 お店は近所の企業の利用を中心に、仕出しや、飲食店への卸など大変評判となり、1日300食~400食、売上に換算すると1日30万ほど売り上げていました。

 しかしながら弁当店は利幅が低く、思うような利益が出ないこと、そしてコンビニエンスストアの台頭など競争も激化していたことから、関川さんはラーメン店に目をつけました。

 関川さんは「自分だったらもっと美味しいものを作れる」と感じたようで、弁当店を従業員に任せ、ラーメンの研究を始めたのです。多い日は1日5~6軒食べ歩き、研究に研究を重ねました。繁盛していた弁当店からの転業に対しては家族・従業員から反対はありましたが、ラーメン店に大きな可能性を感じていたため、研究のめどが立つとすぐに店を閉めました。

 関川さんはラーメンを大衆食ではなく料理と考え、試行錯誤を重ねました。

 まるで科学の実験のように様々な食材を少しずつ組み合わせて理想の形に近づけました。

 1980(昭和55)年の開業時、既にげんこつ屋のベースは完成していました。

スープを研究する関川さん(1989年撮影)

 関川さんは研究の結果、和風スープと白湯スープの組み合わせがベストだという結論を出していました。スープ材料には鶏、豚、背脂、香味野菜などをおよそ12時間煮込んで白濁させた白湯スープと、マグロ節と利尻コンブでとった和風スープをブレンドするダブルスープ。

 麺は上州産の高品質の小麦粉を使用し、かんすいの使用量を極力抑えた多加水麺。ただ単にコシがある麺ではなく、ソフトな歯ざわりを重要視していました。

 この技法を今から40年以上前からやっていたことを考えるとてつもなく凄いことです。

 げんこつ屋という屋号は、関川さんが命名。「げんこつで大事なものを握りしめる。そして、そのげんこつで握りしめたものを次世代に伝えていきたい」という意味で妥協を許さず常に挑戦し続ける精神を表しています。

 関川さんは、食べ歩きをしている中で、関川さんは当時のラーメン店の弱点を発見していました。それは以下の4点でした。

①女性客・家族連れが少ないこと
②横柄な態度の接客をするお店が多いこと
③店舗が汚く、入りづらいこと
④原価をかけていないこと

 関川さんはこれらを克服できれば必ず繁盛店になるということを確信していました。

 それまでのラーメン店と言えば、どちらかというと中華の影響を受けた赤い天板に、雷文等の装飾をするようなお店が主流でしたが、女性客、家族が気軽に入れるよう、衛生管理を徹底し、和の要素を取り入れた内装を手掛けました。店内ではラジオやテレビ中継でなく、ジャズを流し、90年代後半のラーメンブーム時に広まった内装やスタイルを、関川さんは昭和の時代から取り入れておりました。

阿佐ヶ谷店の内装(昭和56年頃)

 げんこつ屋は東京代表として1994年のラー博オープンメンバーとしてご出店いただきました。

 出店に関しては他のお店同様に簡単にはいきませんでした。

 当時、げんこつ屋は都内に4店舗を構えていました。特に渋谷のお店は売れに売れており、1日1000人以上の来客がある大繁盛店でした。

 渋谷と言えば日本で最も人が集まる場所の1つでもあり、その一等地に念願の出店を果たした勢いのある時期に、わざわざ空き地だらけの新横浜に出店する、そして形もないフードアミューズメントパークという事業にあえてリスクを抱えて出店するという考えはなかったようです。

 ただ「ラーメンの博物館」というコンセプトには興味をもってもらえました。

 ある夜、出店の断りを入れようと関川さんはラーメン博物館の設立準備室に電話をしました。後日談ですが関川さん曰く「確か電話したのは23時頃。この時間には誰もいないだろうと思ったら、電話口に出たスタッフがもの凄く明るくて活気のある声で対応されたので、断り切れず会うアポイントを入れてしまった」とのこと。

 そこからまた交渉が始まるのですが、1つ大きな問題がありました。

 その当時、高円寺に4店舗分のスープや具材を賄うセントラルキッチンがありました。広さ的にも設備的にも4店舗を賄うのが限界だったため、あらたなセントラルキッチンを作る必要がありました。

これはあえてチャンスと捉えた岩岡(館長)は「じゃあ私たちがセントラルキッチンを作ります。ちょうど新横浜の近くに良い物件があります。」

 関川さん曰く「ここまでして私たちのお店を必要と考えてくれるのであれば是非その期待に応えたい」と思ったとのことです。

げんこつ屋ラー博店外観(1994年撮影)

 人材不足もありましたが、ラー博店の店長として抜擢されたのは関川さんの長男である匤仁(まさひと)さん。この時若干22歳でした。

 関川さんは、息子を店長に抜擢するとともに、将来自分が携わった看板メニューが必要と考え、ラー博出店に際しメニュー開発という宿題を出しました。

 開発経緯は割愛させていただきますが、関川さんとしては息子に自信を持って店長になってほしい、そのためには自分で生み出すという経験が必要と感じたようです。

豪快らーめん(塩)

 そうして誕生した豪快ら~めん(塩)は、ラー博出店がきっかけで誕生したメニューであり、その後もげんこつ屋の2枚目の看板メニューとして人気を博しました。

 げんこつ屋は、東京以外にもさらなる店舗展開をしていきたいという考えの元、2000年2月13日をもってラー博を卒業しました。その後、げんこつ屋は最大17店舗を展開するに迄成長し、名実ともに有名店となりました。関川さんは更なる質の向上を目指し、巨額を投じ、水質にこだわったセントラルキッチンを作りました。しかし、拡大路線と巨額の投資に対しての回収が出来ず、2007年7月に倒産。「げんこつ屋」の歴史は27年で幕を下ろすこととなってしまったのです。

 倒産後、関川さん親子は「もう一度一からやり直そう」と、2008年1月東京の田町に新たなお店をオープンしました。屋号は「一本の道」。関川さんが命名しました。

一本の道外観(2010年撮影)

 オープンを見届けた関川さんでしたが、その後、心労がたたり、体調を崩し急逝。ショックの中、匤仁さんは「親父の味を伝え続ける」という強く想いを持ち続けました。

 「げんこつ屋」が幕を閉じてから3年経ったある日、私たちは一本の道で匤仁さんとお会いしました。匤仁さんは「親父がいなくなって、改めて親父の偉大さを感じました。まだ3年ですが、父親が歩んだ創業の苦労というものを少しだけ経験できたような気がします」とのこと。

二代目 関川匤仁さん

 岩岡(館長)は「お父さんが作り上げたこのラーメンを伝え続けることが私たちの使命でもあります。げんこつ屋の味を待っているお客さんも多くいるので、ラー博でげんこつ屋を復活しませんか?」と問いかけました。

 しかし匤仁さんは「まだまだ父親の域には達していない。げんこつ屋という看板でやるのはまだ早い」との理由で断られました。

 私たちは諦めずにその後も幾度となく匤仁さんを訪ねたある日、匤仁さんから「げんこつ屋の味を待っているお客さんに応えたい、そして親父の志を伝えたい。けどげんこつ屋の看板はまだ重いので、“二代目げんこつ屋”としてなら出店を考えたい」との返事をいただきました。

 こうして2011年4月20日、二代目げんこつ屋として関川さんの味がラー博に復活を果たしました。

ラー博に復活した「二代目げんこつ屋」外観(2011年撮影)

 今回のあの銘店をもう一度では、二代目ではなく「げんこつ屋」として復活していただきます。げんこつ屋は2007年に幕を閉じているため、実に16年ぶりに復活するということになります。

 匤仁さんからも「“げんこつ屋”の看板として恥ずかしくない味を提供します。この16年、親父に追いつこう、追い越そうとか色々考えましたが、肩ひじ張らずに、シンプルに“親父の志と味を伝える”という想いをもって臨みたい」とのことです。

 今回の企画のコンセプト通り1994年当時の味を再現します。

 匤仁さん曰く「大きく変わっているわけではないのですが、脂の量や、スープのブレンド等、細かい点です。とにかく初心に戻り、親父を思い浮かべながらラーメンを作りたいです。」

今回復活する看板メニュー「げんこつら~めん」

★スープ
鶏・豚・香味野菜をじっくりと時間をかけて白濁させた創業以来の白湯スープに、げんこつ屋の代名詞“マグロ節”と利尻昆布からとった和風スープをブレンド。関川さんが研究に研究を重ねて編み出した料理としてのスープです。

★麺
げんこつ屋の麺はかんすい少なめの多加水(麺に加える水の量が多い)麺。昨今、コシや硬さばかり注目されますが、ソフトでもちもちとした食感でコシのある麺はスープと絡んだ時、最高のハーモニーを奏でます。

★具材
具材はシンプルではありますが、一番気にかけているのはチャーシュー。やはりラーメンの具材の王道はチャーシュー。豚の選定から調理方法、そしてフレッシュさを大事にしています。そして脂。時代と共に脂の量を減らしましたが、今回は94年当時と同じように、スープに蓋するくらいの量を使用します。

匡仁さん曰く「今ではげんこつ屋を知らない人の方が多いと思っております。そんな方々にも味わってもらいたいですし、古くからげんこつ屋を知る方々にも来ていただき、“あ~懐かしい、これこれ”と言ってもらえると、天国の親父もきっと喜んでくれると思います」とのこと。

 波乱万丈の人生を歩いてきた関川親子。そんな中でも関川さんが命を吹き込んで作ったラーメンは、息子である二代目 匡仁さんによって連綿と受け継がれています。理屈ではなくそこには想いと愛が溢れています。

 次回、銘店シリーズ第20弾はアメリカNY「YUJI RAMEN」さんです!

 お楽しみに!!

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文/中野正博

中野正博

プロフィール
1974年生まれ。海外留学をきっかけに日本の食文化を海外に発信する仕事に就きたいと思い、1998年に新横浜ラーメン博物館に入社。日本の食文化としてのラーメンを世界に広げるべく、将来の夢は五大陸にラーメン博物館を立ち上げること。