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百麺人・山本剛志の「語りたいラーメン店」 第6回

つけ麺は中野生まれ 中野大勝軒(東京・中野)

2020年03月19日 12時00分更新

文● 山本剛志 編集●ラーメンWalker

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 いまや「ラーメンの一ジャンル」にとどまらず、麺料理の一つのスタイルにまで成長した感もある「つけ麺」だが、そのスタイルが生まれたのは、後に「東池袋大勝軒」を創業する山岸一雄氏が店長を務めていた「中野大勝軒」である。

現在の中野大勝軒は、中野駅南口から徒歩2分

 1947(昭和22)年に荻窪で創業した「丸長」から暖簾分けを受け、坂口正安氏が1951(昭和26年)に創業した「中野大勝軒」は、当時は「橋場町」と呼ばれていた場所(現在の中野区中央5丁目)で、現在とは異なり中野駅からは10分以上歩く立地だったという。しかし、外食店が一般的ではなかった時代でもあり、お客さんが常にやってくる繁盛店だった。

 「つけ麺」の誕生は、その繁盛ぶりがきっかけの一つになっている。忙しいので、交互に休憩を取って賄いを出してもらって……などという悠長なことはできなかった。そこで店員たちが目を付けたのが「茹でた麺を平ザルですくう際に、こぼれた少量の麺」だった。それを丼にまとめておき、湯呑み茶碗に「そばつゆ」を入れ、注文が切れたタイミングで手早く食べていたという。

 その様子を見ていた常連客から「あれを食べさせてほしい」という声が、当時店長だった山岸氏に寄せられた。茹でた麺を一度水で締めるなど、手間のかかる工程を加えるのは合理的ではない。しかし「お客さんが食べたいものを提供したい」という山岸店長の熱意で、1955(昭和30年)頃、「特製もりそば」の名前で商品化された。つけ汁もラーメンスープをベースにして、温かく濃い味付けになった。

 「特製もりそば」の製法は、「丸長」や「大勝軒」など系列の店が集う「丸長のれん会」の場でも紹介された。当初はその手間を気にする店主も多かったが、「つけそば」の名前で人気を集めるようになり、現在は「丸長・大勝軒といえばつけ麺」とまで言われるようになった。中野大勝軒は二代目の坂口光男店主に受け継がれ、現在も中野の老舗としてつけそばの味を伝えている。

「つけそば」(600円)

 中野大勝軒が現在提供している「つけそば」は、シンプルながらそれぞれの素材の魅力を表出した一品になっている。自家製の太ストレート麺はやや柔らかめでもっちりした茹で加減でグイグイと啜れるもの。つけ汁は豚げんこつや豚足、親鶏や鶏足、サバ節や宗田節、香味野菜などを丁寧に煮出して、すっきり澄んだスープをブレンドして醤油ダレで味をまとめている。

 麺を啜ればさっぱりしたスープの食感が口の中に広がる。最近は濃厚な「豚骨魚介つけ麺」が多いが、それらとは一線を画している。つけ麺が生まれた店が、守りながら発展させてきた独特の味わいは、オンリーワンの存在感をしっかりと示している。

山本剛志 Takeshi Yamamoto (ラーメン評論家)

2000年放送の「TVチャンピオンラーメン王選手権(テレビ東京系列)」で優勝したラーメン王。全国47都道府県の10000軒、15000杯を食破した経験に基づく的確な評論は唯一無二。ラーメン評論家として確固たる地位を確立した現在も年に600杯前後のラーメンを食べ続けている。

百麺人(https://ramen.walkerplus.com/hyakumenjin/

本人Twitter @rawota

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