インドシフト――このままでは挽回不能なほどの差がついてしまう
IT業界では「インド」がキーワードになって久しい。米国の名だたるIT企業はこぞって南インドのバンガロールなどに開発拠点を置くが、なぜかインドに拠点を置く日本企業はきわめて少ない。このすれ違いのような現象が、何をもたらすのか? 『インドシフト 世界のトップ企業はなぜ、「バンガロール」に拠点を置くのか?』(PHP研究所、武鑓行雄著)という本が届いた。
著者は、元ソニー・インディア・ソフトウェア・センターの社長で、2008~2015年まで約7年間にわたる駐在後も、インドIT業界団体であるNASSCOMの日本委員会委員長として、インドIT業界と日本企業の橋渡し役をつとめている。2012年に、私は、チェンナイに旅行しようと計画を立てていたら「遠藤さんがバンガロールを見ていないのはマズい」と言われて著者を訪ねたことがある。
最新の状況はこの本に詳しいが、ちょうど私が武鑓氏を訪ねたのは、ご自身がまさにインドシフトを痛切に感じてさまざまなアイデアや意見をお持ちになられていた頃だった。当時のようすをいちどアスキー総研の「所長コラム」として書いたが、現在は公開されていないので以下に再掲載させてもらうことにする。
世界はフラット化なんかしていない@バンガロール
インド・チェンナイからバンガロールに向かう国内線のロビーにある書店で、『ONE NIGHT @ THE CALL CENTRE』(コールセンターの一夜)という本を買った。インド人の好きそうなブルーの表紙がきれいで、わたしのいるIT業界に関係していそうだし、裏表紙の説明を見たらとても面白そうだった。英語の小説をバシバシ読めるわたしではないのだが、気がついたらレジに運んでいた。
“インドの村上春樹”と言ったら違っているのかもしれないが、ベストセラー作家が書いたものだというのも気になる。それで、裏表紙にどんなことが書いてあったのかというと、だいたい次のようなことである。
「2004年冬、わたしは、旅をしていて夜行列車の中で若い女性と出会った。彼女は、デリーにあるコールセンターの深夜シフトで働く6人に起きたことについて話してくれた。6人は、それぞれ生活にちょっとした問題を抱えていたのだが、そこに1本の電話がかかってくる。コールセンターなので、かかってくる電話は、普段なら客からの商品やサービスに関する問い合わせである。ところが、その電話は“神”からのものだった……」
パラパラとめくってみると、たしかにガタンゴトンと揺れる音のする列車のコンパートメントのシーンから始まっていて、主人公は、その日に飲んだ4杯のコーヒーのために眠れずにいた。すると、カーテンが開いてハッとするような美しい女性が、「この番号、この席ですよねっ?」と言いながら入ってくる。さらにページをめくっていくと、簡単な手描きの図やメールとおぼしき文面も出てきて、いかにもいまのインドの現代文学という感じである。
たぶん、インドに詳しい人なら「ああ、あの作家のことを言っているんだね」と気づいていると思う。著者は、チェタン・バガットという1974年生まれの作家で、この小説の前作である『Five Point Someone - What not to do at IIT!』は、2010年に『3バカに乾杯!』という映画となり、インド映画としては過去最高の興行成績を収める大ヒットとなった。
原作は何年もの間ベストセラーランキングに入り、映画大国インドで空前のヒットを飛ばした作品なので、ネットで調べると「超面白かった!」という感想もどんどん出てくる(実はさらに後でわかったのだが、日本でも2010年に1度だけ「第3回 したまちコメディ映画祭in台東」で上映されている。この際わたしがフィルムを借りてきて上映会をやるか?)。
ちなみに、原著のタイトルにある「IIT」(Indian Institutes of Technology=インド工科大学)は、1950年代以降インド各地に設立された、競争率60倍といわれるような理系の超難関大学。30年後のアジアにおける中国とのパワーバランスを考えて、ケネディ政権が支援したといわれる。これが、インド人の数学能力と相まって、シリコンバレーで起業する4人に1人がインド人と言われることになる原動力となった。
そうした人たちが経済成長の進むインドに帰り、またインド中からIIT出身者をはじめとした優秀な人材が集まって、いまのインドのITパワーを絶大なものにしている。ちなみに、『3バカに乾杯!』と『ONE NIGHT @ CALL CENTRE』を書いたバガット自身も、IITの出身だそうだ。
5月の初め、そんなインドのITの中心地として有名なバンガロールに出かけてきた。
重要なのはバンガロールに“来ること”
インドの南部にある「バンガロール」という都市に、世界のIT企業の多くが拠点を置いていることは、まともなビジネスマンなら知っていると思う。IBM、グーグル、ヤフー、アマゾン、ノキア、アクセンチュア、アカマイ、インテル、シスコ、オラクル、サムスン……など、バンガロールの地図は、IT業界の勢力図を見ているような気分になる。それらに加えて、インフォシスに代表されるインドの巨大ソフトウェア企業もひかえている。
わたしは、カレーが好きで毎日のように食べているのだが、実はインドには行ったことがなかった。それが、たまたまいろんな縁があって、南インドを代表する都市チェンナイ(東インド会社で知られる昔のマドラスですね)に旅行することになった。それが、出発1週間前くらいに「エンドウさんならバンガロールには行くでしょう!」と何人もの方に言われ、チェンナイに滞在する予定の6日間の途中3日間を、バンガロールで過ごしたのだ(チェンナイからバンガロールまでは飛行機で1時間なのですね)。
バンガロールでは、その昔、「VAIO」や「NEWS」でお世話になったソニー(Sony India Software Centre)の武鑓行雄さんとお会いすることになった。というよりも、武鑓さんやソニーのスタッフの方々から有益な情報をいただき、かつ大変にお世話になってしまった。最高の南インド料理のレストラン(!)から電脳街(さすがインドのシリコンバレー)、寺院やピカピカのショッピングセンターまで堪能させてもらった(本当お世話になりました)。
ソニーのオフィスも訪問させてもらったのだが、取材で行ったわけではないので中には入らず、ただ武鑓さんからは興味深いお話をいくつもお聞きした。その中で、とても印象に残っていることがあるので、ここでいま書いているというわけだ。
バンガロールには、世界の名だたるIT企業が拠点を置いているのはご存じのとおりだが、日本企業でここに進出しているのは約80社。しかし、ほとんどがIT企業以外だそうだ。インド全体で見ても、スズキやトヨタなどの自動車、日清食品のチキンラーメンやヤクルトも売っている。ヤクルトは10ルピー(15円)で、ヤクルトレディーもいるそうだ。ところが、IT系となると、バンガロールでもソニーのほか東芝など数えるほどしかない。
グーグルやヤフー、インテルなど、バンガロールに立ち並ぶIT企業のビルの写真は、ビジネス誌などでご覧になったことはあると思う。たしかに、「スゴイな」とは思うのだが、インドというのはやはり遠い存在と感じた人が多いのかもしれない。「インドのソフトウェア会社が、日本で営業をかけているのだから、こっちからインドに行く必要はない」という意見もあるだろう。目黒にある大手銀行の200名くらいいるソフト開発部門を訪ねたことがあるが、半分がインド人、半分が日本人だった。
しかし、武鑓さんは「そういうことではなくて“バンガロールに来る”ことが重要なのだ」というのだ。
そもそも、インドの話をすると「やっているのは電話サポートでしょう」と言われることが多い(まさに『ONE NIGHT @ THE CALL CENTRE』の世界というわけだが)。これには、インド人は英語ができるわりには人件費が安いからと、一段下に見ている部分があるのではないかと思う(映画『スラムドッグ$ミネオネア』は、まさにそうした世界を描いていた)。もう少し新聞記事を真面目に読んでいる人になると、「BPO(会社の総務・人事などの業務処理のアウトソース)ですよね」という反応になってくる。
もちろん、それらも小さくはないのだが、ソフトウェア開発や半導体設計などが、ITと言ったときのインドの性格を際立たせている。TI(テキサスインスツルメンツ)がバンガロールに進出したのは、26年前の1986年だそうだが、いまやほとんどの半導体メーカーがバンガロールに拠点を持っている。かつて、わたしの会社が関係していたNexGenの担当者は、非常に高度なCPUの設計ができる人は世界中でも限られており、その多くがインド人だと言った。しかし、問題は、インド人がコンピュータの仕事に長けていて(2桁の九九ができるとか)、その割に彼らの年収が安い(新卒で年収35万ルピー=51万円程度)というような話ではない。
武鑓さんによれば、「バンガロールにいれば、世界の動きが手に取るようにわかる」のだそうだ。
検索エンジンであろうが、Eコマースであろうが、ソーシャルメディアであろうが、コンテンツを提供する企業であろうが、インドと無関係であるわけにはいかない。銀行や証券、航空会社から、あらゆる製造業や社会システムを動かしているエンタープライズシステムであっても、およそITと呼ばれるもののかなりの部分が、このバンガロールに辿りつくと言ってもよい。
ちょうど、シリコンバレーにいるだけでネット業界のトレンドや人材の話までわかり、ハリウッドに、映画に関わる人やお金や技術が集まるというようなことだろう。それらが、そうした情報密度の高い空間の中で集約されることが大切で、それによって、グローバル市場を相手に圧倒的な商品供給力を生み出すことになる。
バンガロールは、まさにインドのシリコンバレーであり、ITにおけるハリウッドなのだ。コンピュータの世界ではいま、「クラウド」という抽象化された“天国”のようなところにデータやプログラムが置かれるようになった。しかし、コード(プログラム)は天国ではなく地上で書かれている。そして、世界をドライブするコードのかなり重要な部分が、このデカン高原の南側にある人口840万人の都市で生み出され続けているのだ。
バンガロールといえば、世界的に衝撃を与えたトーマス・フリードマンの『フラット化する世界』(伏見威蕃訳、日本経済新聞社刊)の書き出しに出てくるのは、まさにここに巨大キャンパスをかまえるインフォシスというインドのIT企業である。同社を訪ねた『ニューヨークタイムズ』のコラムニストに対して、同社の当時のCEOナンダン・ニレカニが「競争の世界は平らになりつつある」と語ったというのが書名のヒントになった。
ネットによって、インドにある企業であろうがアメリカ国内の企業であろうが、同じフィールドで戦える環境が生まれてきている。
わたしがインド滞在中、オバマ大統領が「米国で雇用が失われ、景気の停滞が続いているのは、インドに仕事を奪われたためだ」と発言したことが、ニュースで大々的に伝えられていた(世界はまさに、インフォシスのCEOやフリードマンが言ったようにフラット化してしまったのだ)。ネットによるフラット化は、米国や日本のような国にはあまりよい結果を生まないという話なのだが、幸いなことに日本はその前段階にも達していない。
むしろ、いまの日本は国内の小さなことしか見ていないことが問題なのだ。製品やサービスの機能やデザインが、日本国内でしか通用しないものになっている現状は、ガラパゴス化と呼ばれる。ガラパゴスから這い出そうとしても、企業内の事情もあるし、具体的な手がかりもないという意見もあるかもしれない。しかし、実のところガラパゴスの対極にあるのがフラット化だと気づくべきなのだ。バンガロールに来るだけでスッと雲が晴れてグローバルが見える。
武鑓さんのアイデアでいいなと思ったのは、バンガロールと羽田を直行便で結び、サンフランシスコと結ぶハブにするというものだ。
世界を目指すと言っている企業は、フィリピンに語学留学なんかしていないで、バンガロールに移って仕事をしながら英語を覚えるほうが効率がよいという意見もあってよいだろう。世界の感覚を掴めれば、日本企業もグローバルでやっていけるはずで、「IT企業のバンガロール進出特別優待制度」のようなものを国が用意するのはどうか。
たしかにいまの世界を1枚の絵に描きだしていくと、これくらいバンガロールの必然性がそろっているというのは本当なのだと思う。だからこそ、世界中のIT企業がインドに来ている。
ついでながら、南インド料理はサラサラ系のカレーが中心なので、ヘルシーで日本人の口に合うというのもメリットといえる(いまのところ正式な日本食レストランはバンガロールに2軒しかないが)。街に活力があるから日本人も元気になるし、気候は年間を通じて25~35度と、インドの軽井沢と言われるほど過ごしやすい。女性は、南インドならではの「アーユルヴェーダ」などの楽しみもあります。
遠藤諭(えんどうさとし)
株式会社角川アスキー総合研究所 取締役主席研究員。月刊アスキー編集長などを経て、2013年より現職。角川アスキー総研では、スマートフォンとネットの時代の人々のライフスタイルに関して、調査・コンサルティングを行っている。著書に『ソーシャルネイティブの時代』、『ジャネラルパーパス・テクノロジー』(野口悠紀雄氏との共著、アスキー新書)、『NHK ITホワイトボックス 世界一やさしいネット力養成講座』(講談社)など。
Twitter:@hortense667Mastodon:https://mstdn.jp/@hortense667
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