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『新装版 計算機屋かく戦えり【電子版特別収録付き】』刊行記念 第1回

FUJIC/日本最初のコンピュータを一人で創り上げた男──岡崎文次

2016年08月23日 09時00分更新

文● 遠藤諭(角川アスキー総合研究所)

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FUJIC、ついに完成す

 独自に研究と実験を重ねたすえ、1952年12月には、いよいよFUJICの組立て作業が着手された。半期の予算として200万円を獲得したという。作業に際しては、社内修理部門の数名が支援してくれた。

 そして、1956年の3月に入って、ついにFUJICは完成する。

――完成したFUJICの、社内や社外での反響はいかがでしたか?

「社内ではねえ……あまり反響はなかったです。やっぱり、計算はあまり必要ない部署ばっかりだったから……。ただ、社外からは使わせてほしいという問い合わせが何件かありました。そういうときは会社に来ていただいて、自由に使ってもらいました」 FUJICのプログラムで使える命令は、加減乗除、移動、飛び越し、入力、出力、停止など17種類。3アドレス方式の機械語で16進数字でコーディングする。命令の数こそ少ないが、レンズの計算を目的にしていたこともあり、乗算命令の種類を増やして、ステップ数が減るように工夫されている。オーバーフローすると分岐するというユニークな命令もある。また、カード入力の際のコマンドとしては、「……をそのまま……へしまえ」「……を2進法になおして……へしまえ」「……にある命令から処理を始めよ」の3種類しかなかった。

――FUJICが完成して、カメラレンズの設計期間はどれぐらい短縮されたのでしょうか?

「設計速度は、人手の1000~2000倍ぐらいあがりました。労働組合などは、FUJICの完成で、計算担当者が仕事にあぶれるのではと懸念していたようですが、それは杞憂に終わりました」

 FUJICに関して、富士写真フイルムからは数件の特許が出願され、すべて認められた。その中のひとつ“循環回路”については、後にIBMが同社と特許契約を結んでいる。電子装置とメカ装置の間にバッファを置く方式、本体処理と入出力の同時並行動作の方式などは、あまりに簡単に思いついたため、特許出願を見合わせたという。

――研究着手から完成まで七年かかっていますが、途中、なかなか完成しないというような焦燥感は?

「いや、初めから細く長くと考えてましたから。むしろ片手間仕事として一人でやったわりには早く開発できたかと思います。予算もあまりかかっていませんしね。当時の僕は電気も機械も素人。それで目標性能を達成するのにとにかく簡単そうな方法を選択したのが良かったんでしょう。とにかく、困難にぶつかって足踏み状態になったことはありませんでしたし、焦りはなかったですね」

 当時は参考にするような文献が少なかったため、文献調査にたいして時間を割かなくてすんだ。大阪大学の城憲三研究室から文献の一覧表を送ってもらい、進駐軍が日比谷に開設したCIE図書館で写真に撮って読んだりしたことがあるという。ENIACの論文もあったが、岡崎氏が答えているように、FUJICとは基本的なアーキテクチャが違う。また、世界最初のストアドプログラム方式のコンピュータはEDSACだが、語長や命令セットが異なっているのを見ると、これも内容が異なり、FUJICが単独でコツコツと作り上げられたものであることがわかる。一人で考えた作業だったため、会議などが一度もなく、意見調整にも時間をとられることがなかったのもよかったという。

■注釈

【アドレス(address)】  コンピュータ内のメモリの位置を示す番地。3アドレス命令というのは、たとえば加算の場合、たされる2つのデータの入っている番地と結果を格納する番地の合計3つの番地をふくむような命令をいう。

【FUJICのプログラムで使う命令】

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