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話題のSFコミック大作映画『X-MEN』が一般公開――トード役のレイ・パーク氏にきく

2000年10月06日 15時00分更新

文● 編集部 井上猛雄

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海外興収4100万ドルをはやくも突破した話題のSFコミック大作映画『X-MEN』。すでに一部で先行ロードショウも始まっているが、明日10月7日からいよいよ日劇ほか全国東宝洋画系にて一般公開される。

記者会見の写真。左から監督のブライアン・シンガー氏、“ウルヴァリアン”を演じたヒュー・ジャックマン氏、トード役のレイ・パーク氏

『X-MEN』は、'63年にスタン・リー氏(原作)とジャック・カービー氏(作画)のコンビにより誕生し、40年近くのあいだ不動の人気を誇ってきたコミック史上最大のメガヒット作。創刊以来75ヵ国で発表され、4億冊以上を売上げた。そのX-MENが新たなストーリーとともにSFファンタジー映像として蘇った。

映画のストーリーは、リアルになるようにX-MEN初期の時代背景に設定されている。コミックのキャラクター哲学が表われるようなかたちで推敲を重ねてシナリオをつくったという。X-MENに馴染みの薄い人たちでも、すぐにストーリーに入っていけるように配慮したものだ。

練られたストーリーの面白さはもちろんだが、そのほかの見どころとしては“SFXテクノロジー”を駆使しているという点が挙げられるだろう。デジタル・ドメインをはじめハリウッドを代表するSFX工房が手がけた映像も魅力のひとつ。驚異的な治癒力があり、超合金の爪や骨格で覆われた“ウルヴァリアン”、天候を自在に操る“ストーム”、目にした人や物に変身できる“ミスティーク”、驚異的なジャンプ力と伸縮可能な舌を自在に操る“トード”などが登場し、その超能力が最大限に表現されている。

今回、映画公開に先立ち来日したレイ・パーク氏に、自身の役柄である“トード”というキャラクターや、撮影にまつわる裏話について訊いた。

'74年8月23日生まれ。スコットランド出身。中国武術を幼少のころから学び、さまさまな選手権で優勝。『X-MEN』では“トード”役として、アクションシーンでその能力をいかんなく発揮した。『スターウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』では、シス卿ダースモール役として登場したと言えば、ご存知の方も多いだろう (C)2000 TWENTIETH CENTURY FOX

どこに舌を巻きつけるか? を考えながら演技

――ストームとトードが一戦交えるシーンがとても印象的で良かったのですが、どうやって撮影していたのですか?

「どのシーンが好き? ってよく聞かれるんだけれど、全部が素晴らしい体験だったので簡単には答えられないんだよね。だけどよくよく考えてみると、ストームとトードが一戦交えるシーンで、ストームがおこした嵐でトードが吹き飛ばされるところが一番気に入っているかもしれないね」

「嵐に向かって歩いているシーンがあるよね。そこで嵐に煽られて斜めに歩いていたり、体ごとふき飛ばされるシーンっていうのは、背中にワイヤーを付けて“その感じ”が出るように見せていたよ。風をおこすには、“キャノン”という大きな機械を使っていたんだ。この機械の反対側から紙や木片などを入れると、風と共に出口から噴射される仕組みになっているんだ」

「だから、あのシーンは演技っていうより、本当にすごい勢いで風をモロに受けていたんだよね。木片やら紙やらが僕に飛んできてすごく痛かった。実際に僕自身はハリケーンっていうものを体験したことはないけれど、“もしハリケーンを経験したことある?”って誰かに訊かれたら、まさに“うん”って答えられるぐらいの経験だったんだ」

――舌を自在に伸縮するシーンに関してですが、演技するのは大変でしたか?

「舌を巻きつけるシーンは、ブルースクリーンの背景ですべてを撮影していたよ。僕はワイヤーで吊るされていて、後ろに引っ張られていたんだけれど、胸のところからもロープが出ていてね、そのロープでも僕を前から引っ張っているわけ。ちょうど僕が前かがみになると、自分の舌のある位置にロープが来る。それで撮影中は、あとからCGを入れる場所がだいたい分かるんだ。そのロープの場所をたどっていけばね。演技するときは、自分には本当に長い舌があって、もし風に吹き飛ばされたら、どこに舌を巻きつけるかっていうことを考えていた。そういう状況のときには、上半身はどういうふうに動くだろうかとか、自分なりに想像しながら演技をしてたよ」

トードの能力のひとつ“伸縮自在の舌”。この部分はCGでつくられている (C)2000 TWENTIETH CENTURY FOX
撮影のシーン。ワイヤーで後ろに引っ張られ、胸部のロープで前にも引っ張られている (C)2000 TWENTIETH CENTURY FOX

テクノロジーが発達しても、本当の人間の演技に勝るものはない

――今後、こういった“テクノロジー”が発達してくると、スタントマンが必要なくなってしまうのでは?

「CGについては、あくまで使い方次第だと思うんだよね。極端なことを言えば、スタントマンだけでなく、俳優さえ、いらなくなるなんて言われているけれどね。スターウォーズの中では、かなり面白いCGキャラクターが登場したと思うし、観客もそれなりに楽しめたと思う」

「でも、僕も含めて観客はみんな人間を見にきているんだと思っているよ。俳優が(スタントを)やりたいと言えばやるべきだよね。もしジャッキー・チェンが自分で演技しなくなったら、ファンはやっぱりがっかりするだろう? 映画自体にも違和感が出てくるはず。だからその作品に出演する役者にもよるんじゃないかなぁ。人間的な要素というのは映画にとって不可欠だし、本当の人間が演じるものに勝るものはないと思ってるしね」

「実はね、最初のキャスティングでは、僕はトード役じゃなかったんだよ。善玉側のX-MENのうちのひとりだった。役柄が善玉側だったことは嬉しかったんだけれど、火を操れるミュータントだったので、この映画の中ではアクションの必要性がなくなってしまう。僕の持ち味であるアクションを最大限に活かせるものということでシンガー監督が考えてくれたのが“トード”役だったんだ」

巨大なビルの壁を駆け上るシーン。レイ・パーク氏の持ち味であるアクションを最大限に活かす (C)2000 TWENTIETH CENTURY FOX

コミックと映画ではまったく違ったトード像に

X-MEN率いる善玉のボス“プロフェッサーX”(パトリック・スチュアート氏)と、悪玉のリーダー“ボスマグニートー”(イアン・マッケラン氏)。同じミュータントである両者だが、プロフェッサーXは人類とミュータントの共存を願って“X-MEN”を組織する。一方のマグニートーは、ミュータントの繁栄のためにテロ組織“ブラザーフッド”をつくる。“マグニートー”の手下である“トード”のキャラクターについて、レイ・パーク氏はこう語る。

――“トード”役については、監督といろいろと話しあったんですね

「プロデューサーや監督から出演の話をもらったときは、とにかく嬉しかったんだ。X-MENのコミックは読んでなかったけれど、子供のころからTVアニメを見て知っていたよ。だから善玉のウルヴァリアン役をやらせてもらえるのかと思って期待していたんだけれど、悪役のトード役だって言われて(笑)」

「正直言うとね、“トード”って知らなかったんだ。コミックの中では本当に最初のほうしか出てこなかったし、あまり有名な役柄ではないでしょ。どんな役? って訊いたら、顔に特殊メークをして、体もちょっと畸形だって聞かされた。だから最初は不安感もあったし、少しがっかりしたけど(笑)、それは杞憂に終わったよ」

――どういう理由で杞憂だったと分かったのですか?

「撮影に入る前に監督と話しているうちに、コミックと映画ではまったく違ったトード像だということが分かってきたんだ。まず、コミカルな部分を活かせるんだ! ということに気がついた時点で、すごくやりがいがあると思った。僕が前作で演じたスターウォーズの“ダースモール”役では“悪一色”だった。悪一色だと演技が一辺倒になりがちだけど、悪役でもコミカルな面を出せれば楽しめると思ったしね。僕自身の中でどんどん“トード”というキャラクター像が広がっていったんだよ」

「僕が思うには、ほかのX-MENは外見的には普通の人間かミュータントかどうか分からないけれど、トードの場合は顔にイボがあったり、舌が長かったり、体もグリーンだったりと、見るからにミュータントって感じでしょ。トードは始めから悪い奴じゃなかったかもしれないけれど、子供のころさんざん苛められて、そういう経験からどうしても悪の道にいかざるを得なかったんだと思う。X-MENたちはプロフェッサーXの下で性善説を信じるようになって、自分たちのミュータントとしての才能を良い面に使おうとした。でも、トードやミスティークの場合は、人を信じようと思ってもさんざん苛められたから信じられなくなっていたんだね」

インタビュー前日の記者会見にて。「僕も昔は週7回ジムに通ってて、まわりに変な奴と思われていた。だからミュータントの“のけ者”としての気持ちが分かるんだ」

欠陥のある“不本意なスーパーヒーロー”たち

原作ができた'60年代という時代背景やイデオロギーにも関係があるのかもしれないが、『X-MEN』は単なる娯楽映画とはちょっと毛色が違っているようだ。虐げられたマイノリティーや差別問題がまだ残っていた時代(今も残っているが……)。そういった状況下で、自ら被差別側である彼らがその状況をどう捉えていくのか。同じ状況に置かれても、考えることは人それぞれ違うものだ。彼はさらに続けて語る。

「映画の中で、“人間は誰しもが違うんだ”って言ってたけれど、それは当たり前のことだよね。だからといって“自分と違うもの”=“ダメなもの”とか、“自分と違うもの”=“悪いもの”という判断ではひとくくりにできないと思うんだ。そういうことを、この映画では語りたかったんじゃないかと僕自身は思っているんだよ」

単に「ああ、面白かったね!」と終わってしまう映画ではなく、ちょっと心にひっかかる微妙な何か。それはたぶん、この映画がいわゆる勧善懲悪型のストーリーではないからかもしれない。すべてのミュータントがヒーローでありながらも“完全無欠のヒーロー”というわけではなく、どこかに負い目をもった“欠陥のあるヒーロー像”という点。善玉役のウルヴァリアンもまさにそうだった。シンガー監督も、彼らのことを“不本意なスーパーヒーロー”という言葉を使って形容している。

ある意味では善悪を超えたところで、彼らは同志であり、共闘関係にあると言えるかもしれない。それは、チャールズ・エグゼビア教授とマグニートーの両氏が、プロローグとエピローグで語る会話の中でも表われているようだ。いつの時代でも抱える問題や矛盾が、スクリーンという海の中で縮図として見え隠れしている。シンガー監督やレイ・パーク氏が伝えたい魅力や面白さは、エンターテインメント以外にもあるのかもしれない。

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