WOWOWは10月6日、東京・ハクジュホールで、ハイビジョン映像とハイレゾ音源を同時に、インターネット生配信する実証実験をした。なお、配信データは期間限定でアーカイブされている(記事末尾のリンクを参照)。
名倉誠人氏による、マリンバソロ演奏を196kHz/24bitでサラウンド収録。これをヘッドホンで立体的な音響を楽しめる「HPL」(HeadPhone Listening)のエンコーダーを通しつつ2chにダウンミックスし、MQA形式にエンコードする。ここまでは非圧縮のPCMデータとして扱うが、最終的には、MPEG-4 ALS形式(ALSはAudio Lossless Codingの略)に圧縮し、映像とともに視聴者に届けられた。
ライブ配信(生放送)の実験であるため、エンコード処理はホール内で収録と平行して実行。各種エンコード処理を施したのち、順次、専用回線でサーバーに上げ、ストリーミング提供する。実際には、エンコード処理やバッファリング処理の関係で、実演から40秒程度のタイムラグが生じていた。
ストリーミングした音声を楽しむためには、PCにインストールした再生ソフト「VLC」が必要。VLCのインストールを済ませれば、PCにヘッドホンを接続するだけでも、48kHz/24bitの3Dサウンドが楽しめるが、PCにMQAフルデコードに対応したUSB DACを接続すれば、192kHz/24bit/2chの品質で再生可能となる。
多くの人が楽しめるパソコン+ヘッドホンの組み合わせ
収録からストリーミングまで複数の変換処理をする点は、一見複雑に見える。
しかしこれは、せっかく高音質なハイレゾ配信をしても、USB DACなどハイレゾ音源を聴くための環境がなかったり、十分な速度のインターネット回線がなかったりして、楽しめないという人を減らすための工夫だ。
まず、実証実験で配信したデータは、ハイビジョン映像とハイレゾ音声を含んだコンテンツでありながら、ビットレートが7Mbps程度と低いため、インターネット回線やサーバーの負荷が比較的少ない。また、FLACなどでの配信とは異なり、ハイレゾ対応のUSB DACを持っていない場合でも、PCに高音質なヘッドホンを接続するだけで、ホールの感覚に近いサラウンド感が得られる。配信側にとっても既存の局内インフラ設備をそのまま流用できる経済的な方法だとする。
MQAフォーマットはファイルサイズを抑えて(低いビットレートで)ハイレゾ音源を収録できるフォーマットだが、ほかの圧縮方式とは異なり、専用デコーダー(MQA対応ソフトやMQA対応DAC)なしでも、48kHz/24bitのPCMデータとして再生できる。
MQAでは48kHz/24bitの器に入りきらないハイレゾならではの高域成分は、必要な部分だけをロスレス圧縮して、48kHz/24bitデータ内で音楽再生に影響を及ぼさない部分に隠す(人間が知覚できないほど小さなノイズ成分など)。MQA対応デコーダーは、この隠された情報を見つけて、ハイレゾデータに復元できる。今回の実証実験では192kHz/24bitだった。MQA対応デコーダーを持っていない場合でも、48kHz/24bitのデータとして再生できる。ハイレゾ対応DACを用意しなくても、48kHz/24bitのデータであれば、スマホやPC上のソフトなど様々な環境で再生できる。
また、MQAでは“音源のクリーニング”という独自の手法を用いて、録音時(A/D変換時)に生じるプリエコー/ポストエコーの悪影響を排除する。結果的に、48kHz/24bitのデータとして再生した場合もCDやほかの48kHz/24bit音源に比べて忠実性の高い再生が可能だとMQAは説明している。
音声は、指向性の異なるノイマン製デジタルマイクなど多数のマイクを使って収録している。
その内訳はステージの前方に垂らすように吊るした3本のマイク(マルチチャンネルシステムのL+C+Rch用)、さらにその上にある複数本のマイク(中央付近の天井スピーカー用)、ホール壁面に設置した4本のマイク(サラウンドch、サラウンドバックch用)、ホール中央の高い位置に×型に置いた4本(斜め前と斜め後ろの天井スピーカー用)となっている。
ステージ近くのマイクは指向性がやや高く直接音を中心に収録。ホール中央や壁面の位置にあるマイクは無指向性でホールの響きや音場感を得るアンビエンス用途に使っている。
これらのマイクの音は、各チャンネル192kHz/24bitの音源としてPCのDAWに送られ。上述したHPLやMQAのエンコーダーを通したうえで、専用回線でサーバーに送られて配信される仕組みだ。
収録や再生の難しいマリンバの音に敢えてチャレンジ
WOWOWは、MQAやHPLを使った、高品質なストリーミング配信の実験を昨年のInter BEEから続けてきた。10月6日の実証実験では聴衆を3グループに分け、演奏の合間に入れ替わりながら、ホール内の生演奏とホワイエに設置されたハイエンドオーディオ機器でのインターネット配信の両方を聴き比べられる内容になっていた。また、インターネット配信はハクジュホールのホワイエのほか、事前に募集した国内のモニターやイギリスからも視聴できた。
マリンバの響きは複雑で、ハイエンドオーディオのデモでも再生が難しい音源としてよく使われる。例えば、部屋の響きやスピーカーのトーンバランスに不自然な部分があれば目立つし、圧縮に対して厳しい音でもある。記者もスピーカーの音質チェックによくマリンバ演奏のSACDを利用する。
実験を担当したWOWOW 技術局の入交英雄氏によると、鋭いアタックを持つマリンバは圧縮音源の欠点をあからさまにする面があるという。過去にマリンバ演奏のCDを制作する際、編集したデータをアーティスト確認に回したところ、アタックがすべて二度打ちになっているように聴こえるという指摘を受けたそうだ。共有したデータは、256kbpsと比較的高いビットレートのMP3にエンコードしていたが、MP3やAACなどの宿命であるプリエコーの影響がそういった聞こえにつながった。逆に言えば、ハイレゾ化のメリットが実感しやすい楽器とも言える。
ホールで聴いた、名手・名倉誠人さんによる生演奏は、マリンバという楽器の醍醐味を感じられる素晴らしいものだった。ホールの音響も素晴らしく、倍音や間接音がまじりあうことで生じる、音色、響き、うなりなど、複雑な響きを存分に感じ取れた。バッハの楽曲をアレンジした曲の良さ、演奏の良さはもちろんだが、音自体の多彩さもまた、生で聴く素晴らしさであることを実感できた。
録音や配信では、生の音が含む情報をどれだけ忠実に伝え、真実味を出せるかが重要だと言われる。こういった音を目の当たりにすると、どんなに素晴らしいオーディオ機器でも、生演奏の情報すべてを再現するのは難しいと、しみじみ感じた。特に放送や配信では、データ量を抑えるために周波数帯域を狭め、圧縮が必要になる。これもまた情報を伝えにくくする要因になる。
ホールに脚を運んだ筆者は、実演奏と、配信をスピーカーで再生した音声を聴き比べることができた。今回は192kHz/24bitの配信ということで、その臨場感、音が周囲から降り注いでくるような方位感をかなり高い水準で再現できていると感じた。臨場感という意味では、単に音がハッキリしているかどうかだけでなく、音場の再現も重要だ。サラウンド収録ならではの立体感があり、好印象だった。
また後日自宅でアーカイブしたデータをヘッドホン、スピーカーそれぞれで再生することもできた。特にMQA対応DACの「Brooklyn DAC+」とヘッドホン「HD 800 S」の組み合わせでは、ホールの響きをほうふつとさせる音の広がりと響き、演奏の細かなニュアンスを伝える分離感の良さを感じ取ることができた。MQAデコードをオンにするとより開放感のある音場の広がり、オフにするとより直接音がハッキリとした芯のある再現となったが、ホールの座席で聴いた音の記憶が鮮烈に蘇る感覚を味わうことができた。
その一方で、生の演奏を目の当たりにすると、ハイレゾでもまだなお、本物の響きとの差があると感じる面もあった。例えば腰が座って実在感のある低域、アタックの鋭さや粒立ち感の表現、あるいはトレモロ奏法でロングトーンをクレッシェンドさせていく際の滑らかさなどだ。もちろんこれはフォーマットだけでなく再生機器自体の制限もある。
ただし、これは決してネガティブな意味合いで書いているわけではない。技術によってこれまでにない音の体験が得られる点は確かに実感できたうえで、だからこそ収録方法やエンコード方法など、技術が解決すべき、さらなる高みがある点も感じ取れたということだ。ここは、その再現に取り組む人々の情熱が反映される余地であり、そこから新たな感動や価値が生まれてくる可能性とも言えるだろう。
コロナ禍で外出が制限される中、インターネットを通じてライブの感動を届けようという試みが盛んになっている。しかし、ライブ放送が増えても、このホールの感動のすべてが伝えられる状況とはいいがたい面もあるだろう。会場のキャパや移動の制約を超えて世界中の人に音楽を届けられるインターネットだからこそ、そのクオリティの向上が求められている。
WOWOWでは近く、最大13.1chぶんのスピーカーを扱えるサラウンドフォーマット「Auro-3D」を使った実証実験も予定しているそうだ。幅広い層にいい音で音楽の感動を届けるための試みとして注目だ。