関東大震災後に「郊外住宅地」に生まれ変わった
ところで、なぜ吉祥寺にはこのような多様性が根付いたのでしょうか。議論を掘り下げるために、この街の歴史を振り返ってみましょう。
なお、以下は特筆のないものに関しては、西武百貨店や流通産業研究所(セゾン総合研究所)を経て、現在は広告会社に勤務し、吉祥寺に約10年(※2013年出版当時)住み続けている斉藤徹氏の著書『吉祥寺が『いま一番住みたい街』になった理由』(ぶんしん出版)を参考にしています。
吉祥寺の人口が急増したのは明治時代の後半以降のことです。1880年代に甲武鉄道(現在のJR中央線)が開通し、1923年に関東大震災が都市部に大きな被害を与えました。かつてないほどの大地震で都市部に住めなくなった人々は、甲武鉄道の開拓によって住みやすくなった吉祥寺に押し寄せました。それまではのんびりとした田舎町だった、この街は「郊外住宅地」として開発が進められていきます。
ちなみに、井の頭公園の公式サイトによると、この公園は正式名称である井の頭恩賜公園の「恩賜:天皇・主君から賜る(たまわる)こと」が意味するとおり、もともとは皇室が所有していた土地でした。この場所が1913年に東京市に下賜(かし)され、1917年に「日本初の郊外公園」として開園しました。井の頭公園も含め、郊外としての吉祥寺の魅力はこの時代に誕生したのです。
ハモニカ横丁は「ヤミ市」から生まれた
第二次世界大戦が終戦を迎えた直後には、新宿や池袋などの都市部に「ヤミ市」が生まれました。社会学者の橋本健二氏と初田香成氏の共著に『盛り場はヤミ市から生まれた』(青弓社)といったタイトルの本がありますが、ヤミ市はその後の都市の発展に大きな影響を与えます。
終戦直後には吉祥寺駅の駅前にも、小さな飲み屋や中華料理屋など、数百件の露店が並びました。この地が後の「ハモニカ横丁」です。ハモニカ横丁のどこか懐かしい空気は、なんと戦後間もなくに生まれたのです。ちなみに、ハモニカ横丁が現在のような人気スポットになるのは1990年代末以降のことのようです。
1970年代には巨大な商業地に
戦後復興が進むと、吉祥寺駅前も次第に整備され、百貨店などの大型店舗が進出してきます。
1959年には現在の東急百貨店の位置に名店会館、1960年には丸井、1969年にはJR中央線駅の高架下に吉祥寺ロンロン(2010年にはアトレ吉祥寺に)、1971年には伊勢丹(2010年にはコピス吉祥寺に)、1974年には近鉄百貨店(2007年にはヨドバシ吉祥寺に)、1971年には名店会館の跡地に東急百貨店……といった具合に、次々に大型店舗がオープンしました。
それに加えて、「駅前通り商店街(現在のサンロード)」や「仲町ダイヤ街(吉祥寺ダイヤ街)」など、商店街もアーケード化して魅力的に売り出されていきます。現在のように商業地としての吉祥寺はこの時代に完成したのです。
1990年代には渋谷的要素を吸収した
社会学者の吉見俊哉氏は『都市のドラマトゥルギー-東京・盛り場の社会史』(河出書房新社)のなかで、高度経済成長が終わる1973年を境にして、東京の盛り場は「新宿的なるもの」から「渋谷的なるもの(渋谷・原宿・青山・六本木など)」に移り変わったと分析しています。
1970年代には「若者の街」や「フォークの街」といった新宿的な要素で少しばかり注目を集めた吉祥寺にも、渋谷の若者文化を支えた渋谷PARCOに続き、1980年には吉祥寺PARCOが開店。同店舗の進出したこともあり、この街は新宿的なイメージから渋谷的なイメージへの切り替えに成功した、と斉藤徹氏は指摘しています。
吉祥寺の多様性には歴史的な裏付けがある
まとめると、当初はのんびりとした田舎町に過ぎなかった吉祥寺は、甲武鉄道の開通や関東大震災後には郊外住宅地と井の頭公園、第二次世界大戦直後にはヤミ市(後のハモニカ横丁)、1970年代には巨大な商業地、1990年代には渋谷的なイメージ戦略……と、その時代にあわせて生まれ変わってきたことがわかります。
『吉祥寺が『いま一番住みたい街』になった理由』でも、吉祥寺の魅力を「立地に関する魅力」「街のコンパクト性」「商業の稠密度とバラエティ性」「利便性の高い自然環境」「〝自分の街〟として感じられること」「生活のカジュアル性」「サブカルチャーの力」に加え、「多世代からの支持 ー街の新陳代謝ー」といった9つのポイントで整理しています。
リラックスしたければ井の頭公園に行けば良いし、どこか懐かしい気持ちに浸ってお酒を飲みたければハモニカ横丁に行けば良い。ショッピングをしたければ、アトレ吉祥寺やヨドバシ吉祥寺だけではなく、吉祥寺PARCOにも行けば良い。それぞれの人が好きなように生きられる多様性には、こういった歴史的な裏付けがあるのです。