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中の人が語るさくらインターネット 第17回

東日本大震災から巨大台風、そして新型肺炎までITでできること

さくらインターネット研究所の松本直人氏が語る災害対応と通信技術の可能性

2020年03月11日 07時00分更新

文● 大谷イビサ 編集●ASCII 写真●曽根田元

提供: さくらインターネット

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 2011年の東日本大震災を契機に、さまざまな形で模索が進んでいる「災害×IT」の分野。長らく災害対応と通信技術の可能性について研究しているさくらインターネット研究所の松本直人氏に、3・11当時の活動を振り返ってもらうとともに、この9年で実現できたこと、昨年10月の台風19号(Hagibis)のときの情報共有について聞いてみた。(以下、敬称略 インタビュアー アスキー編集部 大谷イビサ)

さくらインターネット研究所 松本直人氏

3・11の前日が石狩データセンターの起工式だった

大谷:ご無沙汰しております。松本さんはさくらインターネット研究所の創業メンバーなんですよね。

松本:はい。研究所が開所した当時から携わっていますが、一貫しているのは3~5年先の技術にフォーカスするということです。だから、3~5年前にやっていたのは高密度なスーパーコンピュータをデータセンターにどうやって置くかとか、センサーのデータをいかに人が理解しやすい形に変換するかなどでした。分野を問わず、さくらのビジネスの種を探してくことを目的にしています。

今回のトピックである「災害×IT」も研究テーマの1つです。毎年情報処理学会が開催している「災害コミュニケーションシンポジウム」で登壇しています。災害に対してITはなにができるか、コミュニケーションをどのようにとればよいかが、大きなテーマです。

大谷:きっかけはやはり3・11(東日本大震災)だったんでしょうか?

松本:災害と通信技術の可能性を最初に知ったのは阪神淡路大震災の時ですが、東日本大震災が起こった2011年は、さくらインターネットにとって特に意義深い年だと思っています。というのも、創業以来さくらインターネットって東京以南にしか拠点がなくて、当時は石狩データセンターもありませんでした。というか、東日本大震災の前日にあたる3月10日が石狩データセンターの起工式だったんです。

大谷:なんと!では、作ろうと思った次の日にあの震災だったんですね。

松本:そうなんです。これからデータセンターを立ち上げます!と言っていたときに、東日本大震災が起こったのです。当然、震災以降は資材の調達も難しくなりましたが、なんとか予定通りできたという裏話も聞いています。

ちなみに2011年には「さくらのクラウド」も開始しています。とにかくβ版でもいいからリリースしようということで、短期間でリリースにこぎつけました。突貫工事で、まだ設備も建築途中の中、サーバーを運び入れて、ネットワークをつなぐお手伝いをしていたのも懐かしい思い出です。

オープン前の石狩データセンターと松本氏(写真提供:さくらインターネット)

大谷:一昨年の北海道の全道停電のときもそうですが、よくも悪くもさくらインターネットって、なんかしら災害に関わっていますよね。

松本:昔からそうですね。災害時に出社するか、しないか自己判断するような社内カルチャーはこのあたりから始まっています。災害に対する向き合い方は人によってずいぶん違いますが、さすがに10年経ってくると、いざとなったときどんな手伝いができるか、仕事に影響が出ないようにするための配慮は自主的にやるようになっています。

あの日も官公庁の公開情報をWebサイトでアップし続けていた

大谷:当時はちょうど日本のクラウドサービスも立ち上がったばかりで、災害×ITに関してはいろいろな取り組みが行なわれましたね。

松本:異なる企業のクラウド事業者のメンバーたちも共同で、官公庁の災害関連の情報公開サイトもホストしていました。文部科学省は原発関連の情報、経済産業省は輪番停電の情報といった具合に、とにかく情報は持っていましたが、多くの省庁は自分たちのWebサイトにアクセスが増えたら見られなくなってしまうという危機感を持っていました。

そんな課題感から、震災から2日後の3月13日に、慶応義塾大学の村井純先生や友人を経由して官公庁の方から「サイト手伝える?」という電話が来たので、「手伝えます」と答えたら、「3時間後にはテレビ放送するからアドレスを頂戴」と言われたのでめちゃくちゃ驚きました(笑)。あの当時、そもそもコミュニケーションをまともに取ることすら難しい状態でしたらかね。

大谷:すごい無茶ぶりですね(笑)。

松本:でも、なんとかWebサイト立ち上げて、省庁が持っているいろいろなデータをアップし始めました。当時、文部科学省は職員の方々は直接現地に赴かれていて、ガイガーカウンター等の測定データを、現地から直接霞ヶ関までFAXで送っていたようでした。そのFAXをPDF変換したものが当時、皆さんが目にした最初の放射線情報だったと思います。一番最初のFAXは手書きでした。

当時の放射線情報の公開は、文部科学省の方も試行錯誤だったのか、とにかく頻繁にPDFの差し替えがありました。当然その中のデータ数値も変化していきます。だいたい毎日昼夜問わず2~3時間ごとに更新されていたのを記憶しています。この後、支援がある程度終結したのは、その年の8月8日でした。

情報共有サイトで工夫したのはケータイでさくっと見られる程度のデータにすることです。結局、サイトは私がHTML直書きしたのですが、サイズの大きな画像は張らなかったし、リンクもリソースに直接張りました。自動的にブラウザ側でミラーサイトに振り分けられるというJavaScriptをプログラマーが仕込んでくれたので、細かい設定が必要だったロードバランサーも入っていません。

大谷:確かにスピードと正確な情報が必要な時期でしたね。

松本:当時助けてくれた他のクラウド事業者のメンバーと話して、データを加工することだけは止めました。PDFのデータをグラフ化したり、数値化したりすると、われわれがむしろデータを誤って拡散することになってしまうからです。ITの人間としてはもちろんデータに直接触りたいし、グラフ化したいけど、グッと我慢して生データを挙げ続けました。放射線情報という人命に関わる情報でしたので、正直とても逃げたくなるぐらい怖かったです。

公開が始まったPDFは、人間が不規則に閲覧するアクセスパターンを示していましたが、災害が長期化するについれ、業を煮やしたんでしょうね、ボットでデータ参照して専用アプリやサイトで共有する有志の方々が現われ、1時間に1回以上の頻度で公開サイトからデータを拾うようになりました。ガイガーカウンターアプリや輪番停電アプリなどが、「ITでなにかの役に立ちたい!」という有志によって始まった瞬間でした。

大谷:オープンデータっぽい活動ですね。

松本:そうですね。今から考えればオープンデータの走りだったし、「なにか不安があっても、人は見える化されたデータを見るだけで安心するんだ」という原体験も得られました。

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