「FUKUOKA growth next」オープニング記念のセッションがやたら熱い
オルターブース小島、ペパボ松本、さくら田中の3人が語るエンジニアの生き様
2017年05月24日 07時00分更新
福岡市の大名小学校の跡地に作られた官民協働型スタートアップ施設「FUKUOKA growth next」のオープニングイベント。池澤あやかさんのモデレートの元、エンジニアの生き様を語ったのは、オルターブースの小島淳さん、GMOペパボの松本亮介さん、さくらインターネットの田中邦裕さんの3人のパッション満載のトークをお届けする。
「なぜプログラミングを始めたのか?」はまさに三者三様だった
FUKUOKA growth nextのエンジニアの生き様セッションを仕切ったのは、「池澤あやかのガチでギークな日々」でもおなじみ池澤あやかさん。福岡のエンジニアでいっぱいになった元教室で始まったセッションの最初のお題は「なぜプログラミングを始めたのか?」である。
福岡のクラウドインテグレーターであるオルターブース小島さんがプログラミングを始めたきっかけは、元バンドマンということもありDTM(Desktop Music)だった。「当時はオーディオインターフェイスがなかったので、それを自分で作ったのがプログラミングのきっかけ。シンセで音を作るのがすごい好きだった」(小島さん)ということ。ハードコアバンドのベースを続けつつ、今はやりのデジタルロック的なアプローチを昔から続けてきたという。
バンド解散後もDTMを続けるべく入った会社で下積みとしてやっていたのは、なんとメインフレーム言語のCOBOLだ。「入社して半年くらい経って、これはDTMじゃないのではないかと気がついた(笑)」という小島さんには「おいおい、話盛ってるだろう」と心の中でツッコみたくなるが、気がつけばCOBOLやアセンブラなどのレガシー言語をがっつり体得。そこからエンタープライズITの世界にどっぷり足を踏み入れていくことになったという。
続いてコメントしたGMOペパボの松本亮介さんも、プログラミングは大人になってから。「2002年に大学に入ったのも、情報工学がやりたかったわけではなく、パソコンやインターネットが家庭でも流行ってきたから、やっとくかくらい」(松本さん)だったという。しかし、松本さんは小島さんとはけっこう異なる方向に進み、自作PCにはまってしまったようだ。「5万円でパソコン作れるのすごいと思って、どんどん作っていったら、今度はPCがあまりだした。その後、メールサーバーとか、Webサーバーとか、自分で作れることがわかった」ということで、そのままサーバー構築を始めてしまった。
PC自作に飽き足らず、中古の法人PCなどを買い足していった結果、マシンでいっぱいだったという当時の松本さんの部屋。「クーラーは1年間ずっとつきっぱなし。でも、サーバーがいっぱいあったから、気温はちょうどよかった(笑)」(松本さん)と、まさにプチデータセンターだった。しかし、8畳に20台という規模になると、さすがに勝手に落ちるサーバーが出てきたため、監視や自動化といった分野にスキルを溜め始め、プログラミングに行き着いた。「なんだかサーバーの運用管理が趣味みたいな時代があって、運用をよくするためにシェルスクリプトを書き始めた」というのが松本さんのプログラミング事始めだ。「好きこそ物の上手なれ」とは、まさに松本さんのためにあると言える。
最後、レジェンドエンジニア枠のさくらインターネット田中さんがPC-6001でBASICプログラムを書き始めたのは、今から28年も前の11歳の頃。「私、身長188cmあるんですけど、一番聞かれて困るのは『なんかスポーツやってた?』という質問。まったくスポーツやってなくて、ガチで吹奏楽部とロボコン部。身長の無駄使いとよく言われます(笑)」と田中さんは振り返る。
ロボコンをやりたくて高専に進んだ田中さんは、いわゆるソケットプログラミングにはまり、出てきたばかりのFreeBSDやLinux、Apacheをいじくり回していたという。「青春はプログラミング。そこにパソコンがあったからだ」という田中さんの言葉を、池澤さんは「明言ですね!」と褒めそやす。
「ダンプおじさん」「自分=天才」「BASICマガジンの人」
そんな3人に池澤さんが当時のロールモデルについて聞くと、DTM出身の小島さんは「小室哲哉!」と即答。質問の趣旨に合った回答としては、障害時のメモリダンプを一瞬で見つけるダンプおじさんだった。「今でこそ画面に標準出力とか出ますけど、当時は出なかった。でも、そのダンプおじさんはダンボール10箱くらいに入ったメモリダンプの印刷出力から、障害原因を一瞬で見つけるんですよ。50歳過ぎのおじさんでしたけど、当時はあこがれてましたよ」(小島さん)。
一方、松本さんの大学時代は「自分天才」だと信じ込んでいたため、特にロールモデルはいなかった。「サーバーが部屋に20台とか、特殊環境の自分すげえみたいな気持ちがあって、ロールモデルなんて考えもしなかった」(松本さん)。しかし、調子に乗りすぎて留年した松本さんは心を入れ替え、人から学ぶことを覚え、その後はさまざまなロールモデルの存在が松本さんを新しい世界に導いてくれる(後述)
田中さんのあこがれは最初に買った「マイコンBASICマガジン」の編集長と投稿している人たちだった。そして、学生時代にすごいと思ったのはLinuxの産みの親であるリーナス・トーバルス氏。「当時、UNIXが全盛期だったけど、高かった。コンパイラ1本300万円したんです。だからソースが見られる価値よりも、無料という価値の方を感じていた」という田中さんは、プログラマーとしてリーナス氏を尊敬していたという。
エンジニアにとって大事にしたいことと成長
続いて、池澤さんから振られたお題は、「エンジニアとして大事にしたいこと」だ。まず小島さんは「絶えず勉強すること」だ。「僕自身がプログラミングからずいぶん遠ざかっているけど、現場のメンバーの設計書をチェックして、自分なりに勉強している」という。インプットがないと、アウトプットもできない。当然、成長もできないという持論だ。
まじめな小島さんに対して、松本さんは「好きなことをやること」と語る。「大学時代はとにかく楽しかったから、いろいろ続けられた。でも、当時は大人から『好きな人を仕事にするのは後々しんどくなる』と言われて、よくわからないけど、すごくいやだった」と語る松本さんは、好きなことをやることにこだわって生きてきたという。「コード書くとか、勉強するとか、論文書くとか、とにかく楽しいからやっている。そういう自分が好きでやっていることが、自分の所属する会社やコミュニティのメリットになるよう意識してきた」(松本さん)
極度の人見知りで、「同じ日に2回名刺交換しちゃう」くらい名刺交換が苦手という田中さんが大切にしているのは「人に会うこと」だ。違う技術を持っている人、別の会社の人に会って、刺激を受けることがエンジニアとして非常に重要だと訴える。「昔はレンサバの仕組みとかも自分で書いていたので、ともすれば自分すげえって思いがちだったけど、他の人と会うたびに、いかに自分が『井の中の蛙』であるかを気づかされた」(田中さん)。だから、人見知りでも、名刺交換苦手でも、登壇し続ける。「1人でコーディングするよりはたくさんの人に出会って、刺激を受けて、自分の成長を見いだすことが重要だと思います」(田中さん)。
登壇者の話を受け、池澤さんが語った大事なことは「好奇心」だという。「バレンタインデーであげたチョコを光らせるとか、ポッキーゲームマシンを作るとか、くだらないコードしか書いてない(笑)」と語る池澤さんが今書いているのは、SNSからデータを取り出し、自分の好みのタイプの顔をサジェストしてくれるコード。こういうオモシロネタが生み出せるのも、やっぱり好奇心が原動力というわけだ。
プログラミングだけで生きていきたいか?
次のお題は「プログラミングだけで生きていきたいか?」 元バンドマンであり、エンジニアでもあり、経営者でもあり、柔道整復師でもある小島さんは、「超絶飽きっぽいので無理!」と一喝。松本さんも好きなことが5つくらい並列してやりたいので無理だという。「さっきも同僚から会社でゲームの話とかしないでくれって言われましたけど、実際朝4時くらいまでスパロボやってました(笑)」とのお答え。ちなみに好きなことの中にはきちんと「家族」も入っているという。家族重要です。
小島さんと同じく飽きっぽい田中さんも、いろいろやりたい派。「そもそも、最近仕事辞めようかなと思うこともあります」とコメントして、会場をどきっとさせた田中さんだが、「とはいえ、期待されると、それはそれで応えたい気持ちもある。だから、みんなが思ってくれないと、辞めますよと言っている」と語り、面倒くさいキャラクターぶりをアピールした。
さらに田中さんは、「そもそもプログラミングよりも、松本さんと同じくサーバーが好きなんです。サーバーと結婚できないのが残念」とまたまた味のあるコメント。おそらくその心理を理解できない池澤さんが、「サ、サーバーの魅力ってなんですか?」と振ると、田中さんは「インターネットを介して、僕が仕事していないときでも仕事してくれる」サーバー愛を打ち明ける。
たまに起こるサーバーの障害に関しても、「サーバーにバグはない。バグじゃなくて、それは人のミス。コンピューターが間違えとるのはなく、人間が間違うとるんですよ」と徹底擁護。人間の命令を人間が動いていないとときもけなげに実行し続けるところが、田中さんの胸を打つようだ。